今こそ『自動車の社会的費用』を。


f:id:s70708710:20200403212324j:image

宇沢弘文(1974)『自動車の社会的費用』岩波新書の簡単な感想を以下に記しておきたい。

 

この本にある経済学的な思考は誰にでも備わっているべきである。我々は、社会的な価値判断を前提として生きている。しかし、その社会的価値判断は一度下されると、再び検討されることがない場合がある。それが問題となるのは、本書の主題となっている「自動車通行に伴う社会的費用の発生」といったような、社会的価値判断が結果的に我々に被害を及ぼしている場合と言って良いだろう。
1973年という、高度経済成長の盛りに上梓され、世に送り出された本書の提言は今もなお現実的なものとして、目の前で繰り広げられている我々の価値判断に伴う社会的活動を考え直すきっかけと、その際に必要な思考の土台を読者に対して提供している。
当時、社会問題となっていた「公害」も、今日における「気候変動問題」も本書の射程である。

本書によると、かつての東京都を事例として、自動車が事故や公害などの「社会的損失」を発生させないように現状の道路を改造すると仮定し、その費用を都民所有の自動車台数で割ると、1台につき1200万円になったという。この事実は、当時の世論に衝撃を与えたそうだ。

このように実際の数字で議論しているため、より現実味を持って「自動車の社会的費用」を感じられる。


本書を読むことによって、「自らがどのような社会に生きているか」「どのような社会に生きるべきか」が見えると同時に、いかに、「日本社会における都市構造と自動車交通」を含めた社会的インフラストラクチャーが「非人間的」かつ「環境不適合」なのかが自ずと感じられることだろう。
21世紀が始まって、20年を迎えようとしているが、度重なる自然災害に、凶悪事件、自殺、交通事故、原発の問題など、様々な社会的価値判断が引き起こしてきた問題が眼前に山積している。
新型コロナウイルスという「社会的脅威」が我々を脅かしている今日こそ、本書を読み、ありうべき社会とは何か、そしてそれはいかに造られるべきかを考えることは有益である。

 

最終更新日:2020年4月20日

A・O・ハーシュマン著/矢野修一訳『離脱・発言・忠誠』を読んで

 


f:id:s70708710:20200307152113j:image

 

 

アメリカの著名な経済学者ハーシュマンによる古典的名著である。

まず、離脱、発言、忠誠という本書の基本的な概念について、私なりに簡単に解説しておきたい。

離脱は、exitのことである。つまり、ある組織のメンバーが、組織の衰退に際して、その組織から抜けることや、ある商品やサービスの購入者(消費者)が、商品の質の低下に際して、その商品の購入をやめることが離脱(exit)にあたる。

発言は、voiceのことである。つまり、ある組織のメンバーが、組織の衰退に直面して、組織の中枢等に対して「声を発する、意見する」ことや、ある商品やサービスの購入者が、その商品の質の低下に直面して、その商品の生産者に対して声を発する、意見することが、発言(voice)にあたる。

忠誠は、loyaltyのことである。ある組織や商品に対する、メンバーや消費者の愛着、忠誠心のようなものである。この強さが、以上のような組織や商品、サービスの衰退や質の低下を目の当たりにしたときの、組織のメンバーや、商品・サービスの購入者がとる離脱や発言といった行動の選択や内容に小さくない影響を与える。

本書を読む上で、重要なことだが、離脱は、経済学者の信奉してきたオプションであり、発言は、政治学者の信奉してきたオプションである。つまり、本書の基本的な構造は、離脱と発言の関係性、経済学と政治学の建設的で生産的な対話の形を採っている。

このようにみると、本書の中で展開される議論が非常に身近であることに気がつくであろう。

自身が、同じような局面に直面した時に、どのような意思決定をし、行動してきただろうか。そして、すべきなのか。このような視点で本書を読むのがおおよそ良いと思われる。

ここで本書を通じて、浮かび上がった考えをいくつかここに記しておく。

世の中には、例えば、児童虐待のような痛ましい事件が起こる。これを、本書の議論に当てはめて考えてみる。

児童は、基本的に、家庭から離脱もできなければ、発言もできない。だからこそ、最悪の場合、想像を絶する苦痛と悲しみの果てに親に命を奪われてしまうと考えることができないだろうか。

離脱も発言もできない状況は、このように深刻な状況、非常に好ましくない状況にあることが、この例から説明できると思われる。

そのとき、何が子どもの命を救うだろうか。

それは、日々、関心を持ってくれているご近所さんかもしれないし、幼稚園や保育園、学校の先生かもしれない。ひいては、児童擁護施設の人など、行政関係者がそうかもしれない。
最近では、「社会的な結び付き」「社会的ネットワーク」と言えるものが弱体化し、以上のようなアクターが非常に少なくなっている。

しかし、そのような中でも、もはや例外的かもしれないが、社会的ネットワークに救われる命はあるだろう。

こう考えてみると、離脱も発言もない状況におかれた者を救うには、「離脱や発言を助ける制度や社会づくり」が重要であることがわかる。

こうして、一見、どうしようもない状況に「可能性」を見出だしていく重要性は、本書が教えてくれる。

加えて、私たちの発言や行動の「まだ見ぬ可能性」を過小評価して、「発言や行動を断念」してしまうことの危うさもまた教えてくれたように思う。

また、以下は私のツイートの引用である。

離脱される組織・商品の質が悪化していることを前提にすると、石鹸やパンの購入をやめる(離脱)ことで、本人は不利益を被ることから逃れられるが、治安や教育の効果に関しては、それを供給する「社会」から「逃亡」しない限り、その消費に伴う不利益」(公的害悪)から逃れることができないという意味で、「完全に」離脱ができない。
以上を踏まえると、私的財からの離脱は、「単なる」離脱だが、公的財からの離脱は、抗議をしつつ退去すること、つまり、外部から公的害悪と戦うことになる。このことから、本書の112頁にあるように、公的害悪を以上のように明確に捉えるならば、公的害悪から「逃れようとするだけ」ではなく(実際には逃れられないのだから)、公的害悪に対して、その元凶の内部あるいは外部から、その元凶とそれが供給するモノ・サービスの改善のために「行動」することがいかに重要で、合理的なことなのかがわかる。そのような合理的な行動をとることが、我々に「安堵感」をもたらすということだろう。

最後に、矢野修一氏による「あとがき」から文章を引用する。 「本書で展開されたように、単純ともいえる概念を駆使しつつ、いろいろな場面を照射していくと、<中略>社会のあり方に関し、経済学だけ、あるいは政治学だけに依拠していてはみえなかったような問題が明らかになる。ハーシュマンの真骨頂はまさにこの点にある。既存の理論枠組みでは「これしかない」「このようにしかならない」という状況のなかで、「生起しつつある現実」に目を向け、ありうべき可能性の領域を広げようとするのが彼の主張する「ポシビリズム(possibilism)である。」 また、本書ではハーシュマンが「逃げたつもりでも逃げきれない局面があるという議論を展開し、個人の選択を出発点としながら社会的共同性へとつながる道筋を提示したのである。」

 

目の前にある非常な不満を見過ごすのか、それとも「可能性を信じて」変えていく具体的な努力をするのか、今日の全ての「社会人」に鋭く問われている。

見えない敵:隣国から波及した混乱に思いを寄せて

昨日に引き続き、まるで春が来たかのような陽気でした。

新型コロナウイルスが猛威を振るう中、生活圏はなんら変わりがないように見えます。ただ、マスクが品薄・品切れ状態になっていたり、気持ちマスク着用者が多いような気がします。中国では、自動車等の生産工程がストップしているということで、そうした影響は、そのうち私の近くにも現れてくるかもしれません。マスク以外の何かが品薄になったり、それに伴って何かの価格が上がったりというように。また、私の生活圏は平穏に見えても、先日、中国から大型船舶で何千人もの中国人が福岡に上陸するなど、決して無関係な出来事ではありません。

こうしたことを目の前にして考えるとやはり、慌ただしく深刻な状況にある武漢やダイヤモンドプリンセス号と私は「同じ線の上に生きている」ということを多少なりとも実感せざるを得ません。

新型コロナウイルスは、「新型」ということで花粉症やインフルエンザのように特効薬がないことが不安の原因の一つでしょう。ウイルスのように「見えない敵」は、人々の不安を「過剰に」煽り、そうした事態は、「パニック」や「差別」となって人間社会に暗い影を落としているように見えます。

武漢の人々のパニックを見て、単に「恥ずかしい」「見苦しい」「情けない」というような否定的な感情を一瞬覚えてしまうものの、ふと我に帰り思うのです。「自分が同じ立場・状況に直面したら、冷静でいられるか」と。

そのように想像力を働かせると、「単純で反射的かつ粗雑な感情」は、たちまち「冷静かつ客観的な共感・理解」へと変化するように思います。

こうしてあらゆる事象に「自分を当てはめて」考えるという思考の大切さは言うまでもないでしょう。

たしかに新型コロナウイルスは怖いですが、本当に怖いのは「理性があるのに、それを蔑ろにして感情の赴くままに行動する人間」かもしれません。

皮肉にも、新型コロナウイルスという「見えない敵」は最も身近な(私たち1人1人に内在する)「見えない敵」を「見える化」しているようです。

 

さて、今日はバレンタインデー。チョコレートをめぐってドキドキした淡い青春の日々も日に日に遠い過去となっています。

目まぐるしく変化し、ここで触れたこと以外にも無数に不幸なことが存在・散在している世の中ですが、今日ぐらいは、全員にとってそこにチョコレートがなくても、甘く幸せな日であってほしいものです。

 

最終更新日 2020.2.20

 

生きる上での「確かさ」と「幸せ」NHKスペシャル「認知症の第一人者が認知症になった」によせて

ついつい見入ってしまった。(番組についてはこちらのURLから

http://www6.nhk.or.jp/special/sp/detail/index.html?aid=20200111#)


f:id:s70708710:20200116103350j:image

素晴らしい番組でした。高齢化社会、より身近になるであろう認知症。ただ、それ以上に人の生きる意味や、長谷川先生が仰っていた、生きていく中での「確かさ」がどれほど尊いのかがわかる内容でした。


90歳の「先生」は「患者」になったのですが
それでも「医者」「先生」「認知症の研究者」であり続けていました。それは発する言葉の端々から伝わってきました。

長谷川先生は先輩医師に

 

「君自身が認知症になって初めて君の研究は完成する」

 

という言葉をもらったようですが、これはあらゆることに通ずる言葉のように思います。先生の研究は完成しつつあるのかもしれません。

 

私が注目していたのは、長谷川先生が、どこまで病状の進行を「自覚」しているのか、どこまで「認知症患者としての自我と社会(家族など)との関係性」を「理解」しているのかといった点です。先生は、この2つの点を必死に捕まえようと努力なされ、個人的に、かなり捉えきれていたように思います。


日々、生きている中で「確かさ」が失われていくことの不安や恐ろしさ、一方で、「見える景色は変わらない」という事実が見えてきました。

 

認知症によって、余分なもの(認知機能など)が徐々に剥ぎ取られていくのなら、最後まで「残したいもの」は何でしょうか。

 

健康な脳を持つ者として、私は尊い「確かさ」の中で、何を大切に生きなければならないのでしょう。

 

また、認知症や、うつ病のとき、どこまで自分を「客観視」しつつ冷静でいられるでしょうか。

 

最後まで、家族の存在や、家族との思い出は忘れたくないものです。

結局は、瞬間、瞬間を笑顔で楽しみ、人との関係を保ちながら、謙虚に、堂々と、感謝を忘れないで生きるべきなのでしょう。


強調したいのは、この番組でわかることは、「認知症患者の家族のあり方」

だけでは決してないということです。

 

このドキュメンタリーは、自分とは異なる他者と、どう関わることで、

「お互いが幸せで良い関係を築けるのか」

という課題に関しての非常に良い教材だと思います。

近年話題の自閉症スペクトラムや、うつ病、といったような、特に「脳」「認知」といった

 

「目に見えない障碍」

 

とどう向き合うべきなのか、かなり示唆に富む、あまりにもリアルな教材とも言えるのではないでしょうか。

決して暗い気持ちになるような番組ではないです。家族が寄り添ってくれる幸せ、有り難さを感じ、言葉にして妻や娘に伝える姿には心を打たれます。
先生自身が提唱し、推進してきたデイサービスを、先生自身が利用したときに感じた

「孤独」

は、切実なもので、介護のあり方や、医療の捉え方はどうあるべきかが問われていると思います。

 

一人一人が、ゆりかごから墓場まで、1秒でも長く幸せで満たされた気持ちでいられるような世の中にしていかないといけないと思います。

 

長谷川先生の妻がピアノで奏でる「悲愴」と、それを幸せそうな表情で聴く先生。そこには、悲しみの文字は見えませんでした。

 

               【以上。最後までご覧くださり、ありがとうございました。】

職業選択~好きと得意を一致させることの重要性~

 

この記事は先日のツイート(https://twitter.com/ecological0508/status/1212937359999635459?s=19)を、再掲し、編集しやすくしたものです。

ーーーーーー

職業選択をする上で結果的に満足するには、向いてるかどうかじゃなくて、好きかどうかを基準にすることが大切だと思う。好きじゃないことでも、向いてるから続けるうちに好きになることもあるかもしれないが、好きなことを続けることでそれに向いてる自分に近づいていく方が良いような。

向いてることが始めから好きなことであれば一番良いが、職業選択に悩む人が大多数であろうことを考えたら、やはりそんな偶然はあまりないだろう。

 

また、好きなことを向いてることに変化させることができれば、その成功体験が、また他の「向いてること」を生み出す原動力となるかもしれない。綺麗に数式で証明することはできないが、向いてないけど好きなことを続けることでそれを好きで、かつ向いてることに限り無く近づけるという行動を私が支持する理由は、おそらく以下のようなところにある。得意なことを活かすことだけが正義となれば、社会から見て相対的に得意なことがない人(これは生まれながら比較的貧しい環境に身を置いている人を想定している)は、低水準の所得しか得られない道に進むことになりがちという状況を生みやすくなると考えている。

 

うまく説明できないが、結局「先天的要素だけで勝負あり」な社会は駄目で「後天的要素でも勝負あり」な社会にしていくべきであると考えている。そして、「得意はつくれる」し「得意はつくるもの」という発想が当たり前な世の中の方が、平等で明るいものになりそう。

 

これから、医学が進歩して先天的な要素で、どこまで個人の能力が規定されるかがより明確にわかるようになるかもしれないが、それが「個人の可能性」「モチベーション」を削るようなものならそのような技術の一般化は手放しで歓迎できない。その意味で、医学の進歩は、足を踏み入れてはいけない「聖域」に達しつつあると言えるかもしれない。

 

話が脱線した感があるが、以上のような医学が進歩しても、私を含めて、おそらくこれといった先天的才能を持たない人が、生き方によっては「豊か」になれるような社会にしていくべきだと思う。そのためには、思想的にも制度的にも、「才能をつくる」ことを当たり前にすることが重要だと考える。

「金持ちの子は金持ち」「貧乏の子は貧乏」の社会で、誰が前向きに生きれるか。結局のところそこに行き着く。

だから、「就活サイトの診断結果」なんて

「知ったこっちゃあない」と無視して好きなことがあるなら続けるだけ。

まだまだセーフティネットは不十分で、リスクは伴うが、

「社会的にも物理的にも死にはしない範囲」で努力して非金銭的な意味で「豊か」になれたらそれで良いと思っている。

インスタグラムの功罪と理想のインスタグラマー像~素人男子学生的視点からの考察~

 はじめに

 インスタグラム(以下Instagram)が普及して、5年は経ったのだろうか。私がInstagramを始めたのは2017年だから、比較的遅い方かもしれない。今ではTwitterと並び、生活にすっかり入り込んだInstagramであるが、TwitterやLINEとは色々と異なるSNSだ。

 まず、Instagramは、画像や動画といったビジュアル面に特化したSNSだ。ある程度文字を書き込めるが、投稿欄は画像、動画のみが並ぶ形式になっている。中にはその特徴を利用して、複数枚の画像の一部を組み合わせて、一つの画像をつくる人も多い。

Instagram発祥?のストーリー機能

 今では、LINEやYouTubeにも同様な機能が追加されたが、ストーリー機能というのはInstagramが先駆けとなったものだろう。最初は、使いこなせなかったが、ストーリー機能も中々面白い。Instagramの通常の投稿をストックだとすると、ストーリーへの投稿はフローと言えるかもしれない。ストーリーの投稿は、24時間すると自動的に消え、アーカイブにしか残らない。他人には基本的に24時間しか見れないのである。中には、ストーリー機能のみ利用している「投稿0系アカウント(私が名付けた)」も存在するというように、ストーリー機能は、Instagramの大きな魅力の一つになっている。ストーリーへの投稿も、ストックすることは可能で、アーカイブで自分で閲覧できるだけでなく、「ハイライト」機能を利用し、選択したものは体系的に整理した上で、投稿と同じように制限なく、ストックとして他人に見せることができる。

ストーリー機能は、男女差はさほどないが、ハイライト機能については、圧倒的に女性ユーザーの方が使いこなしていると感じる。その利用方法の例として、旅行によく行くユーザーであれば、北海道、東京、神奈川、大阪のように地名別に過去のストーリーへの投稿を体系化して、楽しんでいる。また、これは極めて女性的な気がするが、「○○ちゃん」「彼ピ」「好きピ」「ダンス部」のように、友人をはじめとした人物を分類する形でストーリーを体系化するユーザーも多いように感じる。遊んでいてもストーリーに投稿されない、投稿されていてもハイライトに載せられないとなると、結構ショックを感じるケースは多そうだ。きっとハイライトによく載せる○○ちゃんの方が好きなのだろう。または、○○ちゃんは自分より容姿が優れていないので自分が映えるのかもしれない。これは、通常の投稿にも言えることだ。また、ネガティブではない理由として、プライバシーの観点からあまり自分のことを投稿しないでくれているケースもあるだろう。○○ちゃんは、自分に自信があって、顔を載せても嫌がらないけど、○○ちゃんは、自信なくて、写真も嫌いで、プライバシーを重んじるとなれば、前者を優先して投稿するだろう。ただ、顔を隠して投稿するユーザーも多いため、一概には言えない。

Instagramの罪

なんだか、本筋から話が逸れた気がするが、Instagramは面白い分、面倒くさいSNSだ。その最たるものがストーリー機能における、「親しい友達」機能である。比較的最近追加された機能である。これは、自らのストーリーを親しい友達と、それ以外に分けて、投稿を親しい友達にのみ見ることのできるようにすることができるという機能だ。プライバシーの観点からも、便利かつ有効な機能だが、これがトラブルメーカーでもある。

 Aちゃんのストーリー見た?と言われたBちゃんは、Aちゃんの指すストーリーを見ようとするも、見れない。ここで、Bちゃんは、自分が親しい友達ではないことに気付くわけである。中々残酷である。ただ、SNSを通じた「友人?」関係なんてそんなものである。ただ、私にも過去にあったが、新しい友達を親しい友達に追加し忘れていたというケースもあり、これは誤解を招きかねない。自らの親しい友達認定基準と照らし合わせて、合格である人物は、忘れずに親しい友達に追加した方が良い。特に、実際に同じコミュニティや近いコミュニティであれば尚更である。

 書いていても思うが、自分もSNS時代の面倒くさい人間である。しかし、最近の中学生や高校生は大変だ。Instagramとかいう、トラブルメーカーが現れたのだから…

 これも触れておきたいことだが、最近、「いいね」の数が他人に表示されない使用になった。友人によれば、ユーザーの中に、他人にいいねの数を見られたくないというユーザーがいるから、そこに配慮して使用が変わったという。それほど、他者の評価を気にするなら投稿しなければ良いのにと思ったり。個人的には、他者の投稿のいいねの数を見て、そのアカウントの影響力や信頼性を測っていたので、やや不便になったなぁという感覚だ。Twitterでもあるのかもしれないが、フォロワーを売買する事例もあるようで、フォロワーを買う「見栄っ張り」はある意味で寂しい人間である。

Instagramの功

 Instagramの功罪の功の方に光を当ててみよう。Instagramは何かとお洒落なSNSである。Twitterが理系男子だとすると、Instagram文系女子といったイメージがある。この、Instagramの普及により、「インスタ映え」という概念が登場し、社会を変容させたと言っていい。これが、良いか悪いか、「Instagramの功」とまとめておきなから、中々微妙なところだが、人々の消費行動を活性化、円滑化したという点では「功」であると考える。カフェはビジュアル重視で攻めている。Instagramは、費用ゼロで宣伝効果を得ることができる。こんなに素晴らしい広告はないだろう。店によっては、Instagramハッシュタグ付きで投稿を条件に割引をするなどして、Instagramに宣伝効果を求めている。「インスタ映え」によって、見た目にフォーカスした財やサービスが多くなっている(特にカフェをはじめとした飲食店で顕著ではないか)ように感じる。そうすると、飲食物では見た目にこだわるあまり、味が落ちたり、人工の調味料等がより使われるようになるといった健康面の心配もある。あと、やたら撮影スポットが増えた。個人的にあまり好きじゃないのは、壁などに書かれた翼のイラストだ(海に多いのかな)。多くは虹色のもので、真ん中に立つと翼が生えているように「映える」のである。個人的に、それで写真を撮ったら負けだと思って未だに翼を生やしたことはない。ただ、日常、非日常の中にあるこれまでは見逃していた「インスタ映え」を発見することもあるだろう。これは、生活の中に新たな「楽しみ」や「価値」を見出だすと言う意味で良いことだと思う。

 加えて、Instagramに自撮りを投稿するユーザーが増えてきたように思う。これは、ナルシストだなぁと思われるリスクのある一方で、「自分を魅せる」場があり、自分を魅せることが当たり前のことになってきていること自体は、素晴らしいと思う。これは、日本人の自己愛と自己表現力の向上や、自分を磨くことの習慣化に繋がり、いいねやコメントでの評価によっては、より自信になることが考えられる。海外の女性なんぞ、お尻の自撮りまで自信満々に投稿しているようだ。


f:id:s70708710:20200106223630j:image←天神大名にある人気タピオカチェーン「貢茶」

おわりに代えて「インスタグラマーの理想像」

 最近では、インスタグラマーという、素人の中でもフォロワーが多い人で10万人を越えるユーザーも増えてきた。彼ら、彼女らに共通することとは何だろうか。多くの場合、容姿が優れていたり、お洒落であることだろう。そして、当たり前といえば当たり前だが、「自分を魅せる」のがうまい。女性に支持されるユーザーは、コスメティックからアパレルやアクセサリーまで、どこのブランドの何を使っているのか包み隠さずに発信する。そこまでなら、広告収入目当ての場合もあるだろうが、フォロワーやファンからの、美容に関する質問から、様々な相談にまで丁寧にストーリー等を使い答えるインスタグラマーは、より支持されやすいだろう。

 理想的なインスタグラマーは、与えられるだけではなく、与えようとする。自分磨きをしたい世の中のInstagramユーザーにとって、インスタグラマーは、遠すぎず近すぎない憧れの対象なのではないか。

 私も、SNS上に限らず、人に何かを与える人間でありたい。

 

 

      ※最終更新日2019年12月30日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書と本屋と本と私~平凡な学部生による読書生活のススメ~





f:id:s70708710:20200420192803j:image
写真は私の本棚(2020.3月頃のものに更新しました)。

 中古だろうが、新品だろうが、ある程度の余裕があればやっぱり本は買って読むべきだと思う。電子書籍は、仕事を効率化しても、読書生活を効率化することはない。

 齋藤孝先生の『読書力』という本は、私の読書生活に最も影響を与えた本だ。最初の1冊にもオススメである。

今年も沢山の本を買った。ほぼBOOK・OFFでの購入だ。どうでも良い話だが、気になる時は、本のカバーを入念にウェットティッシュで拭いている。

本は、使いよう、考えようによってはコスパの良い情報源・ツールだが、決して安くないと感じる。

率直に、私の可処分所得からすれば高い。

勿論、見ず知らずの人が使った本より新品が欲しい。ただ、中古には中古の良さがあったりする。あまり出回ってない本だったりすると嬉しい。基本的に書き込み有りの本は買わないようにしているが、それでも、読んでいて書き込みに出くわすことがある。私はあまり好きじゃないが、前の所有者が、どこをどのように読み、どう感じたのか、想像する際にヒントになるというのも中古ならではだろう。

まぁ、安さが圧倒的な魅力なのは自明。

私は、暇さえあれば書店に足を運ぶ。長いときで、二時間近く本棚に囲まれて過ごす。

もっとも、二時間近く居てしまうような本屋は少ない。良い本屋は、当たり前だが、蔵書数が多い。また、清潔で落ち着ける雰囲気や、整理されていて目的の本に辿り着きやすいというポイントも兼ね備えていて欲しい。ランキング形式で本を並べたり、手書きコメントをつけるなど、店員による一工夫も見所だ。

 まちにひとつは、以上のようなポイントを備えた本屋が欲しい。

 「本屋さん」というより、「書店」という感じ。書店という感じの書店がいい。

 何か、アカデミックな雰囲気、荘厳な雰囲気の本屋が少ない気がする。雑誌や漫画の充実した、楽しい雰囲気の本屋もあっていいけど、やっぱり、読書はそんな生易しい営みじゃないと思うと、本屋の雰囲気もそれっぽくあって欲しい。店を訪れた人の、知的好奇心を呼び覚ますような本屋こそ、私の思う「書店」だ。

 BGMは、ゆったりとしたクラシックが良い。ワーグナーとかドヴォルザークとか(クラシックについても記事を書いてるので良かったらご覧下さい)。

 アカデミックな本屋さんは、本当に楽しい。こんなの買う人いる?!って感じの分厚い歴史書や専門書もある。そんなニッチなニーズにもきっちり答える本屋が良い。売れない本は置かないのでは味がない。

 近年、活字離れに、電子書籍の登場による紙離れというように、出版業界は厳しさを増しているようだが、そんないまこそ、紙の書籍の良さを、どう見せるかが問われていると思う。わかりやすい紙の書籍の利点を、いくつか上げれば、解像度(画質)が良い、バッテリーを気にしなくて良い、適切に扱えば半永久的に読めるなどがあるだろう。

 

 私は、曲がりなりにも読書が生活の一部にあって、本屋で本を買うことも日常である。ノンフィクション信者である。シェークスピアや、ドストエフスキー森鴎外太宰治といった方々の文学の道を通っていない。これは地味にコンプレックスだ。そんなこともあって、『銀の匙』や『坊っちゃん』、『三四郎』を読んでみた。やっぱり良いものは良い。小説の良いところは、情景描写から登場人物まで、何から何まで想像力を働かせて読む楽しさと、それによって想像力、表現力、感性が養われるところだ。語彙力ももちろん養われる。

 薄々気づいていたが、ただ単純に沢山本を読めば、頭が良くなるということはなさそうである。大切なのは、本との関わりかたで、積極的な程、知識は頭に浸透するし、「考える力」や習慣が養われる。

 ある古本屋の壁には、「読書によって、物知りにはなっても、頭脳は明晰にならない」そんな旨の貼り紙があった。筆で書かれた力強い字だった。

 ただ、矛盾するような話だが、読書をするようになって、先述の『読書力』の中にあったように、「思考するための材料としての言葉」が増えたことで、より思考が精密で豊かになったように思う。

 私は、楽しむためだけではなく、思考するため、思索して何か面白いことを生み出すために読書をしている。

 本なんて図書の時間に仕方なく借りて読んだ記憶しかないとか、漫画しか読めないなんて人々が読書家になるまでに、色んなハードルがあるのではないか。そして、そのハードルは考え方を変えたり、工夫をすることで越えられるものなのではないか。そんな風に、最近思った。

 例えば、「本は最後まで読まないといけない」という固定観念に縛られていないか。私は5冊買って、最後まで読みきる本が2冊でも良いと思っている。一番良くないのは、勝手に読書のハードルを上げて、本を買わずに全く本を読まないことだ。

 一冊の本を最後まで読みきれない自分を責める必要はない。読書をしない人の中に、このような生真面目な人がいるのではないか。たしかに最低限の忍耐力はいるかもしれないが、読みきれないのは、その本がつまらないか、自分の関心とあっていない本だと思えば良い。実際にそうであることが多いだろう。

 どんどん本を買って、どんどん本棚を満たせば良い。ただ、立ち読みして買って、結局読まずにいた本も本棚に並べてあったら、いつか読むことがあるかもしれない。

 本を買って本棚に並べておくというのも、また読書生活に欠かせない営みで、「本との縁を結ぶこと」でもあると思う。

 本が増えていくと、自分がどんな分野に関心があるのかわかってくる。

 好きなように本を並べると良い。縁を結んだ本が、貴方を救ってくれる日が来るかもしれない。

 本棚は、暖かみのあるデザインか、荘厳なデザインが良い。木が良い。

 本の芳ばしい香りが漂う書斎。多くはのぞまないから、将来ぜひとも持ちたい。

 本の選び方だが、基本的に、題名、目次、著者プロフィールの3つを重視している。

 あと、見るのはその本が何刷かだ。言うなれば、どれだけ売れている本なのかが、そこを見れば一目瞭然である。出版社も大切だ。

新書であれば、岩波文庫、中公文庫を信頼しているし、好んでいる。社会科学系の本であれば、有斐閣や、日本評論社ミネルヴァ書房などだ。

 それぞれの出版社に、それぞれの歴史や背景、ポリシーがある。

そんなところにも想いを馳せて、ぜひ読書生活を初めてはいかがだろうか。

 ちなみに、私は常に何冊かは本を所持して外出するようにしている。いつでもどこでも本を開けばできるのが読書である。

 まとまりのない文章になったが、平凡極まりない大学生が、読書について書いてみた。

 これを見て、少しでも本屋に行きたい、読書をしたいと思ってくだされば嬉しい。