ニューノーマル(新常態)と1945


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写真は、昨日美しいと思い撮影した、「風」に揺れる稲である。まるで、緑の海、まさに海原であった。今、世の中には風が吹き、私たちは其々の揺れ方で揺れている。

新型コロナウイルスが、近い将来インフルエンザのような立ち位置に落ち着くのか、風のような立ち位置に落ち着くのかわからないが、私たちの日常は、「ある程度」戻ってくるのだろう。

それも、次の「新しいウイルス」の感染拡大に備える形で。次は、同じ轍を踏むことなく、早急に国境の移動を凍結し、情報は躊躇うことなく公開し、流布せねばならない。

それでも押さえ込むことが難しい感染症の流行が起きた場合に、備えねばならないのだ。

私たち日本人は、歴史的に「未曾有の」大地震や大水害に悩まされてきた。

その度に「次なる脅威」「次なる未曾有」に備えてきた。

ただ、それでも多くの場合失われる命はゼロにはならなかった。多くの場合、当該地域は「日常」を失った。

「日常」を失った。と言えば、1945年前の昨日に触れなければならないだろう。

恥ずかしながら8時15分のその時、私は眠っていた。それでも、そのことを反省すべきだし、反省している。

ヒロシマにあの日起きたことは、「ヒロシマの悲劇」ではなく、紛れもない「日本の悲劇」だった。

日本全体に受けてもおかしくはない痛みを「ヒロシマ」が一身に受け止めたというのが私の認識だ。

ヒロシマは、最初の被害者だ。

そして、明後日8月9日の11時2分には、2度目の悲劇、「長崎の悲劇」が起きた。

私の感覚では、「ヒロシマ」は「ヒロシマ」として、「長崎」は「長崎」として、あの日の悲劇は語り継がれ流布しているようだ。

ヒロシマ」には数年前にバラク・オバマが訪れた。では「長崎」はどうだろう。

そのような意味において、方や片仮名、方や漢字の表記にした。

あの日から75年。そして、偶然にも、私は宮崎駿監督の手掛ける『風立ちぬ』を二度も観ることになった。

一度目は数日前、二度目はつい先ほどである。

戦争というのは零戦を設計した、堀越二郎の同期のほんじょうが言うように大いなる「矛盾」であったし、堀越二郎やその他の飛行機(戦闘機)の設計士にとって、「呪い」だった。

今を生きる私たちは、「矛盾」と「暴力(権力)」と「貧困」にまみれ、火の海に焼かれた、全ての命の犠牲を越えたところに立っているのだ。

例え75年の歳月が流れようとも、あの戦争を「私たちにとって最も身近な最後の戦争」とすることが「私たちの義務」ではなかろうか。

全ての戦死者に敬意と慈しみの心を込めて。

『風立ちぬ』視聴後記:困難な時代を清く逞しく生きた若き男女の短くも素朴な「幸せの日々」


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風立ちぬ』を視聴した。映画でこんなに泣いたのははじめてかもしれない。私の心に風は吹いているのだろうか。これからの10年、どう生きるか。君の10年はどうだったかと訊かれて、力の限り生きたと答えることができるのか。いつの時代も健やかな者は力の限り生きねばならない。堀越二郎の愛した菜穂子
は「美しい、風のような人」だった。若い男女の、あまりにも「短く、濃密な恋」そして「結婚生活」だった。未曾有の大災害の日に偶然列車が同じで、その時「風が二人を結んだ」のだった。二郎は絵にかいたような好青年。その親切さと勤勉さ、優しい心が菜穂子を惚れさせたのだ。菜穂子も同じように素敵
若い女性だった。当時の医療では、おそらく根治は難しかった結核に侵されていた菜穂子は、孤独の中、「二郎と末永く生きるために」高原病院で治療を受けるも、ある日二郎から手紙をもらうと決意を固め、病院を後にし、二郎の側で残り少ない美しい命の炎をもってして、1日1日を生きる選択をした。
二郎もそれを悟っていたから結婚した。国家プロジェクト級の仕事をまかされ、忙殺されるはずだった日々も、菜穂子と二人だから乗り越えることができたのかもしれない。左手はしっかりと横になっている菜穂子の右手を握り、せっせと設計の仕事(残業)を続けた二郎。この場面は、「二人三脚」で飛行機を完
成させたことを意味している。二郎にとって、菜穂子の温もりこそが原動力だったのだろう。会うべき人に会えたら、それは、ただそれだけでも非常に幸せなことだ。ただ、会うべき人と結ばれたらもっともっと幸せだし、10年でも20年でも一緒に過ごせたら、言葉にできないほど幸せなのだと思う。私がもし、
堀越二郎だとしたら、生涯結婚しないだろう。いや、できないだろう。それくらい尊く美しい女性だった。二人には、あと10年時間があっても足りないくらいだったと思う。そして、別れは本当に突然だった。最期のキスも爽やかだった。二郎は、飛行機が無事にテスト飛行を終了し、拍手喝采を一身に受ける中
「心ここにあらず」だった。それは、菜穂子の「旅立ち」を「風の知らせ」で知った(感じた)からだろう。二郎の視線の先には、高原病院があったはずだ。そして、菜穂子は最期に二郎の名を口にし、「ありがとう」と力の限り言っただろう。二人の時間は、その最後まで「笑顔の時間」だったのだ。

頭から離れないのは、二郎の上司の奥さんが菜穂子が置き手紙を残して去ったあとの何もない部屋で口にした「美しいところだけ好きな人に見てもらったのね」という台詞だ。
菜穂子の思いを表現するに、これ以上ない言葉だと思う。

二郎と菜穂子の短い物語。

そこにはいつも「風が吹いていた」。

私も、私の10年を「堪る限りの力を尽くして」生きようと心から思うのだった。そしてその限りある時間の中で、美しい人に出会いたい。

そういえばそうと、あの映画の冒頭の言葉が良い。
「風が立つ。生きようと試みなければならない(byポール・ヴァレリー)」。


※最期に、堀越二郎堀辰雄に、そして映画製作陣の皆様に敬意を込めて。素晴らしい映画を、思い出を有り難うございます。

 

 

『耳をすませば』視聴後記:何者でもない自分との葛藤と青春の日々


f:id:s70708710:20200804112458j:image(写真は夏真っ盛りに筆者撮影。夏空とうすいくもと、小高い丘の住宅のバランスが美しい。)
耳をすませばを視聴。なんでもっと早くこの作品と出会わなかったのだろう。1994年を舞台にした作品。私の生まれる4年前の日本。少し都会だ。なんだか懐かしい街が舞台なのだ。誰もがきっと見たことのある風景がそこには広がっていた。季節は夏休み前から冬にかけてといったところか。蝉の鳴き声にツクツクホウシのものが混じると夏の終わりを感じるものだ。蝉は私たちの日常においても、声だけの出演なのだが、やっぱり季節を彩る演奏者だなぁと思ったり(雫も詩的なことをよく口にする女の子だったから移ったのかも笑)。主人公の月島雫は、団地暮らしの中学3年生だ。決して裕福ではないが 貧しくもない、「暖かい家庭」がそこに確かにあったのだ。団地暮らしの四人家族は、まさに「現代の当たり前の家族」を投影したものにみえた。「全国どこにいってもそっくり」な団地は、部屋も多くないし、広くない。でもその窮屈さが、かえって家族一人一人の心の距離を縮めるのだと思う。ただ、カントリーロードの詩にあるように、家族の中にいても「思春期の私(雫)」は精神的に孤独だったと思うし、誰もがそんな寂しさを抱えては夜を越えたと思う。口うるさい姉も、頭の良い母も、冷静で穏やかな 父親も、何者でもない自分と理想の自分のギャップに葛藤する雫のことを思いやり、心配し、それぞれが声をかけていた。ただ、中学3年生の「原石」は不器用で時に盲目である。家族の声が、時に邪魔だっただろう。うるさかっただろう。でも、心の奥では心地よかったのだと思う。姉が家を出ると聞いた時の 雫の表情が物寂しさを物語っていた。家族ってそういうものだ。いつもそこにあって、いざ見えなくなるとポッカリ心に穴があく。物語の半分は夏真っ盛りである。雫は、友達が多く、愛されキャラだ。そばかすがチャーミングですらっとした原田夕子は親友で、雫のことが好きな杉村に恋をしていた。この恋をめぐるドラマが味わい深く、胸が苦しくなるものだ。杉村は、明るくて野球部でもレギュラーな、体育会系の男子。雫とは、「仲の良い友達」だった。雫は杉村を想っていることを夕子から聞いたが、あることをきっかけに、杉村の「鈍感さ」が腹立たしくなる。神社で、雫と杉村が二人きりになり、雫がしびれを切らして、あまりにも鈍感な杉村に、夕子のことを話してしまう。すると、照れて、混乱したのか、勢いにまかせて、「我慢してきた雫への想い」を杉村が雫へ告白することに。まさかの展開に雫は驚くも、杉村は勇気をふりしぼり「男女」の関係になってくれないかと持ちかける。ただ、雫は「友達」としか思っていなかった。力強い意志を感じた。月島雫は、優しい女性なのだ。正直な女性なのだ。思わせ振りなことはしない。杉村は肩を落とすと去った。これぞ青春なのだ。「近すぎて叶わぬ恋」「近づき過ぎて叶わぬ恋」が、必ずある。私にも同じような経験があった。「杉村わかるよ。ドンマイ。」そう思った。ここまで詳しく振り返ったのも、それだけ重要な場面に感じたからだ。雫は気づいた。「私の方こそ鈍感である」と。中3の女子が、客観的に自分を知った瞬間でもあった。周りのことは見えても、自分のことは見えないものなんだと賢い雫は痛いほど感じたことだろう。貪るように本読んでも、思春期の視野は、そうそう広くならないものだ。自分のことになると滅法弱い。自分が思う以上に自分が周りからどう思われているか把握できていなかった雫の誤算だった。はやく気づけば、期待させずに、あんな落ち込ませずに済んだのに、、と思ったことだろう。そして、まだ知らぬ天沢聖司から想われていたのだ。雫は魅力的な女性なのだ。わかりやすく可愛い子ではなく、素朴な可愛さを持った女性こそモテる。意地っ張りだけど優しくて明るく、前向きな雫に惹かれるのだ。聖司の「好き」は想像以上に大きかった。雫が「名前」しか知らない頃から、隣に座って図書館で本を読んだりもしたのだ。杉村の告白と異なるのが、「好き」とは言わないところだ。天沢聖司は極めて「好き」に近い表現で、雫に想いを伝えたのである。「カントリーロードの詩」は雫そのものだった。遠いイタリアの地でのバイオリン作りの武者修行を、その詩とともに頑張るといってのけた聖司はできる男だ(笑)。容姿だけでなく、言動も格好良い。そんな天沢聖司が好きなのは雫もわかっていたが、雫にとって彼は精神的にも物理的にも「どんどん遠くへいってしまう存在」だった。雫も懸命に想いに応えようとした。それが、彼女の成長のきっかけだったのだ。地方の中学生というのは、初めて進路選択を迫られることも珍しくないと思う。はじめて「迷う」のだ。なんだか自分だけが取り残されているように錯覚する時期に、目の前に流星のごとく現れた王子様は、近いようで遠い存在だった。それくらい中3の女子には「夢のある男子」は大人に映るのだろう。これまた、「バイオリン職人」ってお洒落過ぎる(笑)。おまけに、雫とアトリエでセッションするシーンがあり、これも見所中の見所なのだが、天沢聖司のバイオリンが上手いのだ…雫が歌うのをためらい「音痴だから…」というと、「君の歌がいいんだよ」と言わんばかりの台詞を口にする聖司。たまらん(笑)。セッションには、途中から忍び込んだ、聖司の祖父と愉快な仲間達も参加して大盛り上がり。人生はこうい

う瞬間のためにあると思わせられるシーンだった。「遠くへ」いってしまう聖司に、少しでも近づこうと、夕子の何気ない言葉にふれてやる気になった雫は、「自分が好きなこと、誇れること」は聖司にも認められた「物語を紡ぐこと」であると定め、長編作品を書くことにする。試験勉強そっちのけで、来日も来日も机に向かった。その「若さに溢れた想像力を存分に飛翔させて」彼女は、不思議な宝石と恋の壮大な物語を「完結」させたのだ。「完成」ではないのだ。聖司の祖父が「原石」だと評した雫が、文字通り「原石」のような「磨けばもっと美しいが、そのままでも輝いている」物語を書き上げたのである。約束通りに、一番に聖司の祖父に自らの書いた作品を、渡したその日の内に読ませた行動にも私は惹かれた。それほどまでに、「自分の一生懸命が評価される日」を待ち焦がれていたのだろう。聖司に「近づきたい」その一心だったと思う。「よく頑張りました。」聖司の祖父に言われると、雫の瞳からは涙が溢れた。中3の少女にとって、長編作品の執筆は、「永い永い闘い」だったのだ。そして、書いたものが読んだものに「評価」されることが、怖いのだ。ほめられたものの、一度は「本当のことを言って!!」と険しい顔で迫った雫は、「本気で闘っていた」し「大人の容赦ない評価」が欲しかったのだ。大人になるというのはある面で、自分の身の丈を知ることだ。できないことを認めるのは宮崎駿さんが言うように残酷だ。ただ、それを恐れて前に進めないのだ。自分を信じて、努力して出来上がった成果は、どんな結果であれ実りがあるもの。雫は聖司の祖父に「もっと勉強します!!」と宣言した。ここで、雫の父が家族会議で言った言葉が思い出される。「人と違う道を行くことはそれなりに辛いことだぞ。責任は自分にのしかかってくるし、人のせいにはできない。」こんなことを言ったのである。娘の努力を陰ながら応援していたあげく、これが言える父親は素晴らしい。「好きなだけでは成功しない」それが現実なのだ。
そして、成長した聖司と雫は運命的な再会を果たし、自転車のうしろに乗せられた雫は、ゆられながら、聖司の秘密の場所に向かった。そこで、二人揃って見たのは宝石のように眩い日の出だった。
聖司は結婚したいと言った。雫もそう思っていたと言った。
最後、聖司が「雫、大好きだぁ!」と彼女を抱き締めながら叫ぶシーンはいつまでも忘れないだろう。ちなみに、エンドロールで待ち合わせをして落ち合い、一緒に歩いてゆく夕子と杉村が描かれる。これもまた粋な演出だ。そして、やっぱり「好き」にも全然違った二種類があるという事実にハッとさせられる作品だと思うのだ。

「もっと勉強します!」宣言をした雫は、今頃(作品から25年だから、だいたい39歳くらいの女性だろう。天沢雫になったのかもしれない。)「面白い人間」になっているに違いない。帰りたいけど帰れないのは「あの青春の日のふるさと」である。

さて、そろそろ筆を置いてゆっくりと眠りにつこうと思う。だが、その前に少し目をつぶって「あの街」に想いを馳せてみたい。
耳をすませば」どこか遠くから美しいバイオリンの音色と透き通った青春の歌声が聴こえてくるかもしれない。

postコロナに向けて:ラッセル幸福論における「退屈」を中心に

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(写真は筆者撮影のアマビエ、諫早神社にて。アマビエは、疫病退散に力を発揮すると言われている妖怪である。)

 

コロナ禍というのは、多くの人にとって『ラッセル幸福論』がいうところの、「退屈」な日々である。そして、人々は「退屈を恐れる」らしい。

ラッセルは、『ラッセル幸福論』の中で「退屈には、二つの種類がある。一つは実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。」と述べる。

このコロナ禍は、工夫なくしては「人を無気力にさせる退屈」へと速やかに堕ちてしまうだろう。

この未曾有の、「先の見えぬ退屈」を「実を結ばせる退屈」にすることが私達に求められている。 

また、同書の中で、ラッセルは「退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、いやでも想像しないではいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また、自分の能力を十二分に発揮するわけにいかないことも、退屈の本質的要素の一つである。」と述べている。

コロナ禍は、これらの要素を十分に満たしていると言えよう。

また、「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(同上書より引用)。」という点にも注意を払っておきたい。

この退屈な状況において、悪戯に「興奮」を求めるべきではない。よく考えて「穏やかで豊かな快楽」を今は追及するべきであろう。

 

ここからは、自身のツイートを援用しながら論を進める。

「あらゆる娯楽を抑制すべきという空気の中で、義務を果たせと、仕事や学業はせっせとやらせるのは中々酷な気がする。もっと良い状態を知っているから。我慢の大きい中で、いかに義務を果たすモチベーションをつくるのか。出口見えぬコロナ禍。コロナ禍とは終わりなき我慢のように見えるから苦しいのか。」

というツイートに関しては、義務を果たしている時間以外、いわゆる余暇における活動が制限されていることが、いかに人間のモチベーションを下げるかを考えたものである。

 

そのような中で、一人一人が「我慢を強いられている」わけであるが、皆きつい、皆頑張ってる、そんな声かけは、往々にして、悩めるものを突き放すのではないか。

皆と悩める者が同質(皆=社会人=悩める者)であってはじめて「比較可能」になるという原則は、どうやら「生きる苦しみの解決」の領域では、誰かしらに都合の良いように緩められている気がする。

「これからもっと辛いことがある」というのも、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」先輩による後輩への、優越の証明、いわゆるマウンティングである場合は多いと思う。win-winなマウンティングがこの世に存在するのかは場合によるだろうが、相手のためを思うのであれば、話を聴いて、理解を示し、複数の具体的解決策を提示してあげるべきだろう。

コロナ禍は、誰もが初めて経験し、その感じかたも、そこから受ける苦しみも千差万別である。

 

そのような認識があってこそ、より良いポスト・コロナ禍の社会が築かれるのではないか。

 

私自身に即して言うと、いかのツイートがある。

「大学四年間は、「文遊両道」か「文武両道」かで言うと、文遊両道の方が一般的なモデルかな。正直、コロナ禍は社会を根底からくつがえしたので、withoutコロナの世界は通用しなくなった。つまりwithoutコロナの大学生活は半ば終わったと考えると、色々できること、すべきことはあったと思う。けども、いつもその時はその時の精一杯であり、あとから気づくことは、それ以降でしか活かせないことも多いから、その意味で前向きにやるのみ。」

 

このツイートでは、「withoutコロナ」という表現を用いているが、これは、これまでも、これからも、「postコロナ」とは異なる。

 

なぜならば、コロナ禍というのは、社会に「不可逆的(再現が出来ない)」な変化をあらゆる面で与えたからである。

 

つまり、「withoutコロナ」→「コロナ禍(withコロナとも言われる)」→「postコロナ(withoutコロナに限りなく近づくも、その実現は、厳密には厳しいだろう)」という時間軸と名称となる。というのが私の整理である。

 

最後に、後輩へのメッセージとして以下のツイートを引用する。

「大学や住まいの場所によると思うけど、色々制限ある中での、キャンパスライフも、ある程度ちゃんと勉強するとしたら中々しんどいよ。ということは、伝えておきたい。理系なんて余計そうなのでは。毎週実験や計測のレポート。楽しむ工夫は大切だけど、こういう記事読むとね…https://t.co/jPcFnZRJL8

 

つまり大学生活が失われた!と嘆き悲しむ後輩の皆さんには、「退屈を強いられる余暇」の中で「いかに学ぶか」を考えてもらいたいのである。

 

望むも望まないも、「postコロナを引っ張るのは私達である」ことは間違いないのだから。

 

 

 

 

 

 

風の谷のナウシカ視聴後記:愛されるとは愛すること。そして、自然と共に生きるということ。


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風の谷のナウシカを視聴した。こちらも、スッキリとした構成ながら、力強いメッセージの籠められた物語だった。

 

「自然に愛される者とは、自然を愛する者である」ということを見せつけられ、全ての者は魅せられた。ナウシカのテトとの出会いは、まさに「閉ざされた心を開くこと」の真髄だったと思う。テトの心は、ナウシカの言った通り

「怯えていた」のである。怯えるものに対して、自分は味方であると悟らせるには、多少の「痛み」を受け止める必要がある。

そのようなことを二人の出会いから読みとれる。ナウシカは、テトに噛みつかれても怒ることはなかった。その強さこそが優しさなのだと思う。

 

作品の構図は、人間界と自然界がいかに「共生」するかを描くというものだったが、毒を発する植物が人間界を蝕み、人間は住むところを失いつつあった。ここで、一部の人間達は

「ことの発端」を省みることなく、都合良く、自然界を敵であると見なし、それぞれに団結していた。さらに、本作品では人間界の内部での対立も描いていた。

この対立の元凶は、

「圧倒的な力」つまり「巨人兵」という、現代における核兵器を思わせる、人類を滅ぼしかねない力の存在であった。巨人兵の力で、

「自然の怒り」を沈める、いやねじ伏せようと考える人間がいたのである。この力を誰が握るか、使うべきかで、人間界は揺れていた。

 

風の谷は、宮崎駿が、ナウシカを手掛ける前に関わった『未来少年コナン』における

「ハイハーバー」を思わせる理想郷だった。そこでは、静かに人と自然とが共生していたし、たしかに人間は自然の一部であった。このように考えると、人間界と自然界という二項対立自体が不自然であることに気づく。風の谷に住む人々だけが、自然を傷付けることなく、最後まで自然の怒りを受け入れようとした。その中で、ナウシカ一人が最後まで、人と自然とが生き延びる道を切り開こうと闘ったのである。

彼女は、父を殺した組織のリーダーでさえ助けた。その優しさが「仇にならないこと」をジブリ作品は、私達に教えてくれているように思う。ナウシカは、愛する自然と、そこに住む虫、美しい故郷と、そこに住む人々の全てを守りたかったのだ。


そして、重要なメッセージは、地下深いところ、人が気づかないところで、木々が人々のためにも水を浄化してくれていたということだ。平和のはじまりは、

人々が自然に「生かされている」ということに気付くことから始まったのである。人々が傷付けた自然界は、そのことを人々に気付かせようとしたのだろう。

どんなに時代が変わろうとも、

「美しい命を未来に繋ぐこと」

の尊さは変わらない。オームの群れが、幼いオームをナウシカによって返された時に安心したのはそういうことだろう。

 

最後になるが、私達が地球に生きる限り、風は吹き続けるのである。
その風を生かすも殺すも私達次第だということは常に忘れてはいけないと思う。

「今この瞬間の幸せ」を考える


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 若い皆さんは、言われたことがありませんか。「将来のために、今頑張ろう」って。

 

ふざけんじゃないよ。「今」「今」「今」でしょう。「今」この瞬間こそが「確かな時間」なんですよ。

 

何十年も長く生きた人間は、「今が頑張り時」と言いますが、若い私たちには、どのくらいの時間があるのか、天命なるものが幾ばくほどあるのか、そんなことわからないのです。

 

そんなこと言わずもがな、人は誰しも、確かなものは「今この瞬間」だけなのです。

 

将来なんてものは約束されていません。

 

今の積み重ねでしか、将来は存在しません。

 

受験勉強を頑張るのは、たしかに将来のためですが、頑張れるのは、「確かな今があるから」です。

 

「今が不幸で良いはずがない」のです。

 

もっと幸せに、もっと楽しく生きるために時間を使う権利があるのです。

 

塵も積もれば山となることは勿論重要です。

 

ただ、1日1日をハツラツと生きないことには、苦しいだけです。

 

一人として同じ人間がいないのですから、先人の根性マウントは程ほどに聞いておきましょう。

 

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のです。

 

今が苦しい後輩の皆さんは、「大人を舐めず、尊敬し過ぎず」、「自分はどう生きれば幸せか」を考えて、可能な限り、妥協しない人生にしてください。

 

来世はないと思って。

 

 

 

 

就活を終えて



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私は、慣れてしまえば面接は緊張しないし、受け答えも大体のことは対応できるし、得意な方だと思う。
そして、これは、日頃から色々考えていることが前提だと思う。そして、その「きっかけ」「場」の大半が読書だと思う。私は生きていて疲れるタイプかもしれないが、就活には活きたと思う。

 

色々なことに関心を持とうとする工夫、関心を持つことを通じて、頑張っている、努力しているつもりはなくても、結果的に「勉強できていた」という経験ができた。大学生活を通じて。ろくにインプット(読書など)やアウトプット(ブログ、SNS、他人に知識の共有)をしないで、上手く面接を…なんて厳しい。

 

その上で、当たり前だけれども、就活も恋愛も「マッチング」なので、どんなに努力したとしても、あらゆる運も含めて、相性が悪ければ結果は実らないのだと思う。ちなみに、恋愛は露程も経験していない。

 

 皮肉にも「おちゃらけなかった」大学生活が社会に認められたなぁと思う。実家から地味な公立大学に通ってたからこそだろうか。有名私学に通っていたら、全然違った結果になっていただろうな。もっと「おちゃらけた大学生活」も歩めたのだろうけど、これはこれで良かったと思う。学ぶべき時にそこそこ学んでおくことは重要だと信じて。ただ、もっと人間を学ばないといけなかった。今後の課題だ。

 

あと兼ねてから、大企業に入ることに意義を感じなかった。というより、そのための勉強をしたくなかった。格好つけて言えば、リベラルアーツ思想というか、人間的に「面白く」なるために勉強したかった。無論、旧帝大の学生の多くの足元に及ばないかもしれないが、学生とは何か自分なりに考えてやってきた。そして、自信も表向きにはあるようでいて、なかった。

 

ただ面接を通じて、社会人を相手に、自分の考えを話すなかで自信がついた。ここまで、通用して、評価されると思わなかった。久しぶりに社会の中で肯定されたなぁと感じた。多くの質問が、これまでの人生に関わるものだったから、その喜びも大きい。

 

色々書いてみたが、これは自己満足かもしれない。それでも、自分の内なる感情は、それが公序良俗に反するものでない限りは、言葉として残したい、共有したい。あと、勉強熱心で努力家な後輩の皆さんには、しょうもない先輩である私の、これまでのツイートも含め、それがひとつの「生き方」として意味があるのか、ないのか、それぞれで検討して頂ければ、こんな嬉しいことはないのではなかろうか。願わくば、この人「面白い」と思ってもらえたら良い。そして、話をききたいと思ってもらえたら、美味しいものでも食べたり飲んだりしながら、楽しく談笑しましょう。どこかの後輩の皆、どうか希望を捨てず。

 

「肩の力を抜いて」歩いてください。しんどいときは、ゲームやパズルだと思って、少し俯瞰すると良いと思います。私は、社会人の偉大さを思いながら、どうにか生きていけるような、柔と剛を備えた心を、日々準備していこうとして生きています。弱く、醜く、怠惰な自分も認めて、良くしていきましょう。