postコロナに向けて:ラッセル幸福論における「退屈」を中心に

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(写真は筆者撮影のアマビエ、諫早神社にて。アマビエは、疫病退散に力を発揮すると言われている妖怪である。)

 

コロナ禍というのは、多くの人にとって『ラッセル幸福論』がいうところの、「退屈」な日々である。そして、人々は「退屈を恐れる」らしい。

ラッセルは、『ラッセル幸福論』の中で「退屈には、二つの種類がある。一つは実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。」と述べる。

このコロナ禍は、工夫なくしては「人を無気力にさせる退屈」へと速やかに堕ちてしまうだろう。

この未曾有の、「先の見えぬ退屈」を「実を結ばせる退屈」にすることが私達に求められている。 

また、同書の中で、ラッセルは「退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、いやでも想像しないではいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また、自分の能力を十二分に発揮するわけにいかないことも、退屈の本質的要素の一つである。」と述べている。

コロナ禍は、これらの要素を十分に満たしていると言えよう。

また、「退屈の反対は快楽ではなく、興奮である(同上書より引用)。」という点にも注意を払っておきたい。

この退屈な状況において、悪戯に「興奮」を求めるべきではない。よく考えて「穏やかで豊かな快楽」を今は追及するべきであろう。

 

ここからは、自身のツイートを援用しながら論を進める。

「あらゆる娯楽を抑制すべきという空気の中で、義務を果たせと、仕事や学業はせっせとやらせるのは中々酷な気がする。もっと良い状態を知っているから。我慢の大きい中で、いかに義務を果たすモチベーションをつくるのか。出口見えぬコロナ禍。コロナ禍とは終わりなき我慢のように見えるから苦しいのか。」

というツイートに関しては、義務を果たしている時間以外、いわゆる余暇における活動が制限されていることが、いかに人間のモチベーションを下げるかを考えたものである。

 

そのような中で、一人一人が「我慢を強いられている」わけであるが、皆きつい、皆頑張ってる、そんな声かけは、往々にして、悩めるものを突き放すのではないか。

皆と悩める者が同質(皆=社会人=悩める者)であってはじめて「比較可能」になるという原則は、どうやら「生きる苦しみの解決」の領域では、誰かしらに都合の良いように緩められている気がする。

「これからもっと辛いことがある」というのも、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」先輩による後輩への、優越の証明、いわゆるマウンティングである場合は多いと思う。win-winなマウンティングがこの世に存在するのかは場合によるだろうが、相手のためを思うのであれば、話を聴いて、理解を示し、複数の具体的解決策を提示してあげるべきだろう。

コロナ禍は、誰もが初めて経験し、その感じかたも、そこから受ける苦しみも千差万別である。

 

そのような認識があってこそ、より良いポスト・コロナ禍の社会が築かれるのではないか。

 

私自身に即して言うと、いかのツイートがある。

「大学四年間は、「文遊両道」か「文武両道」かで言うと、文遊両道の方が一般的なモデルかな。正直、コロナ禍は社会を根底からくつがえしたので、withoutコロナの世界は通用しなくなった。つまりwithoutコロナの大学生活は半ば終わったと考えると、色々できること、すべきことはあったと思う。けども、いつもその時はその時の精一杯であり、あとから気づくことは、それ以降でしか活かせないことも多いから、その意味で前向きにやるのみ。」

 

このツイートでは、「withoutコロナ」という表現を用いているが、これは、これまでも、これからも、「postコロナ」とは異なる。

 

なぜならば、コロナ禍というのは、社会に「不可逆的(再現が出来ない)」な変化をあらゆる面で与えたからである。

 

つまり、「withoutコロナ」→「コロナ禍(withコロナとも言われる)」→「postコロナ(withoutコロナに限りなく近づくも、その実現は、厳密には厳しいだろう)」という時間軸と名称となる。というのが私の整理である。

 

最後に、後輩へのメッセージとして以下のツイートを引用する。

「大学や住まいの場所によると思うけど、色々制限ある中での、キャンパスライフも、ある程度ちゃんと勉強するとしたら中々しんどいよ。ということは、伝えておきたい。理系なんて余計そうなのでは。毎週実験や計測のレポート。楽しむ工夫は大切だけど、こういう記事読むとね…https://t.co/jPcFnZRJL8

 

つまり大学生活が失われた!と嘆き悲しむ後輩の皆さんには、「退屈を強いられる余暇」の中で「いかに学ぶか」を考えてもらいたいのである。

 

望むも望まないも、「postコロナを引っ張るのは私達である」ことは間違いないのだから。