『耳をすませば』視聴後記:何者でもない自分との葛藤と青春の日々


f:id:s70708710:20200804112458j:image(写真は夏真っ盛りに筆者撮影。夏空とうすいくもと、小高い丘の住宅のバランスが美しい。)
耳をすませばを視聴。なんでもっと早くこの作品と出会わなかったのだろう。1994年を舞台にした作品。私の生まれる4年前の日本。少し都会だ。なんだか懐かしい街が舞台なのだ。誰もがきっと見たことのある風景がそこには広がっていた。季節は夏休み前から冬にかけてといったところか。蝉の鳴き声にツクツクホウシのものが混じると夏の終わりを感じるものだ。蝉は私たちの日常においても、声だけの出演なのだが、やっぱり季節を彩る演奏者だなぁと思ったり(雫も詩的なことをよく口にする女の子だったから移ったのかも笑)。主人公の月島雫は、団地暮らしの中学3年生だ。決して裕福ではないが 貧しくもない、「暖かい家庭」がそこに確かにあったのだ。団地暮らしの四人家族は、まさに「現代の当たり前の家族」を投影したものにみえた。「全国どこにいってもそっくり」な団地は、部屋も多くないし、広くない。でもその窮屈さが、かえって家族一人一人の心の距離を縮めるのだと思う。ただ、カントリーロードの詩にあるように、家族の中にいても「思春期の私(雫)」は精神的に孤独だったと思うし、誰もがそんな寂しさを抱えては夜を越えたと思う。口うるさい姉も、頭の良い母も、冷静で穏やかな 父親も、何者でもない自分と理想の自分のギャップに葛藤する雫のことを思いやり、心配し、それぞれが声をかけていた。ただ、中学3年生の「原石」は不器用で時に盲目である。家族の声が、時に邪魔だっただろう。うるさかっただろう。でも、心の奥では心地よかったのだと思う。姉が家を出ると聞いた時の 雫の表情が物寂しさを物語っていた。家族ってそういうものだ。いつもそこにあって、いざ見えなくなるとポッカリ心に穴があく。物語の半分は夏真っ盛りである。雫は、友達が多く、愛されキャラだ。そばかすがチャーミングですらっとした原田夕子は親友で、雫のことが好きな杉村に恋をしていた。この恋をめぐるドラマが味わい深く、胸が苦しくなるものだ。杉村は、明るくて野球部でもレギュラーな、体育会系の男子。雫とは、「仲の良い友達」だった。雫は杉村を想っていることを夕子から聞いたが、あることをきっかけに、杉村の「鈍感さ」が腹立たしくなる。神社で、雫と杉村が二人きりになり、雫がしびれを切らして、あまりにも鈍感な杉村に、夕子のことを話してしまう。すると、照れて、混乱したのか、勢いにまかせて、「我慢してきた雫への想い」を杉村が雫へ告白することに。まさかの展開に雫は驚くも、杉村は勇気をふりしぼり「男女」の関係になってくれないかと持ちかける。ただ、雫は「友達」としか思っていなかった。力強い意志を感じた。月島雫は、優しい女性なのだ。正直な女性なのだ。思わせ振りなことはしない。杉村は肩を落とすと去った。これぞ青春なのだ。「近すぎて叶わぬ恋」「近づき過ぎて叶わぬ恋」が、必ずある。私にも同じような経験があった。「杉村わかるよ。ドンマイ。」そう思った。ここまで詳しく振り返ったのも、それだけ重要な場面に感じたからだ。雫は気づいた。「私の方こそ鈍感である」と。中3の女子が、客観的に自分を知った瞬間でもあった。周りのことは見えても、自分のことは見えないものなんだと賢い雫は痛いほど感じたことだろう。貪るように本読んでも、思春期の視野は、そうそう広くならないものだ。自分のことになると滅法弱い。自分が思う以上に自分が周りからどう思われているか把握できていなかった雫の誤算だった。はやく気づけば、期待させずに、あんな落ち込ませずに済んだのに、、と思ったことだろう。そして、まだ知らぬ天沢聖司から想われていたのだ。雫は魅力的な女性なのだ。わかりやすく可愛い子ではなく、素朴な可愛さを持った女性こそモテる。意地っ張りだけど優しくて明るく、前向きな雫に惹かれるのだ。聖司の「好き」は想像以上に大きかった。雫が「名前」しか知らない頃から、隣に座って図書館で本を読んだりもしたのだ。杉村の告白と異なるのが、「好き」とは言わないところだ。天沢聖司は極めて「好き」に近い表現で、雫に想いを伝えたのである。「カントリーロードの詩」は雫そのものだった。遠いイタリアの地でのバイオリン作りの武者修行を、その詩とともに頑張るといってのけた聖司はできる男だ(笑)。容姿だけでなく、言動も格好良い。そんな天沢聖司が好きなのは雫もわかっていたが、雫にとって彼は精神的にも物理的にも「どんどん遠くへいってしまう存在」だった。雫も懸命に想いに応えようとした。それが、彼女の成長のきっかけだったのだ。地方の中学生というのは、初めて進路選択を迫られることも珍しくないと思う。はじめて「迷う」のだ。なんだか自分だけが取り残されているように錯覚する時期に、目の前に流星のごとく現れた王子様は、近いようで遠い存在だった。それくらい中3の女子には「夢のある男子」は大人に映るのだろう。これまた、「バイオリン職人」ってお洒落過ぎる(笑)。おまけに、雫とアトリエでセッションするシーンがあり、これも見所中の見所なのだが、天沢聖司のバイオリンが上手いのだ…雫が歌うのをためらい「音痴だから…」というと、「君の歌がいいんだよ」と言わんばかりの台詞を口にする聖司。たまらん(笑)。セッションには、途中から忍び込んだ、聖司の祖父と愉快な仲間達も参加して大盛り上がり。人生はこうい

う瞬間のためにあると思わせられるシーンだった。「遠くへ」いってしまう聖司に、少しでも近づこうと、夕子の何気ない言葉にふれてやる気になった雫は、「自分が好きなこと、誇れること」は聖司にも認められた「物語を紡ぐこと」であると定め、長編作品を書くことにする。試験勉強そっちのけで、来日も来日も机に向かった。その「若さに溢れた想像力を存分に飛翔させて」彼女は、不思議な宝石と恋の壮大な物語を「完結」させたのだ。「完成」ではないのだ。聖司の祖父が「原石」だと評した雫が、文字通り「原石」のような「磨けばもっと美しいが、そのままでも輝いている」物語を書き上げたのである。約束通りに、一番に聖司の祖父に自らの書いた作品を、渡したその日の内に読ませた行動にも私は惹かれた。それほどまでに、「自分の一生懸命が評価される日」を待ち焦がれていたのだろう。聖司に「近づきたい」その一心だったと思う。「よく頑張りました。」聖司の祖父に言われると、雫の瞳からは涙が溢れた。中3の少女にとって、長編作品の執筆は、「永い永い闘い」だったのだ。そして、書いたものが読んだものに「評価」されることが、怖いのだ。ほめられたものの、一度は「本当のことを言って!!」と険しい顔で迫った雫は、「本気で闘っていた」し「大人の容赦ない評価」が欲しかったのだ。大人になるというのはある面で、自分の身の丈を知ることだ。できないことを認めるのは宮崎駿さんが言うように残酷だ。ただ、それを恐れて前に進めないのだ。自分を信じて、努力して出来上がった成果は、どんな結果であれ実りがあるもの。雫は聖司の祖父に「もっと勉強します!!」と宣言した。ここで、雫の父が家族会議で言った言葉が思い出される。「人と違う道を行くことはそれなりに辛いことだぞ。責任は自分にのしかかってくるし、人のせいにはできない。」こんなことを言ったのである。娘の努力を陰ながら応援していたあげく、これが言える父親は素晴らしい。「好きなだけでは成功しない」それが現実なのだ。
そして、成長した聖司と雫は運命的な再会を果たし、自転車のうしろに乗せられた雫は、ゆられながら、聖司の秘密の場所に向かった。そこで、二人揃って見たのは宝石のように眩い日の出だった。
聖司は結婚したいと言った。雫もそう思っていたと言った。
最後、聖司が「雫、大好きだぁ!」と彼女を抱き締めながら叫ぶシーンはいつまでも忘れないだろう。ちなみに、エンドロールで待ち合わせをして落ち合い、一緒に歩いてゆく夕子と杉村が描かれる。これもまた粋な演出だ。そして、やっぱり「好き」にも全然違った二種類があるという事実にハッとさせられる作品だと思うのだ。

「もっと勉強します!」宣言をした雫は、今頃(作品から25年だから、だいたい39歳くらいの女性だろう。天沢雫になったのかもしれない。)「面白い人間」になっているに違いない。帰りたいけど帰れないのは「あの青春の日のふるさと」である。

さて、そろそろ筆を置いてゆっくりと眠りにつこうと思う。だが、その前に少し目をつぶって「あの街」に想いを馳せてみたい。
耳をすませば」どこか遠くから美しいバイオリンの音色と透き通った青春の歌声が聴こえてくるかもしれない。