A・O・ハーシュマン著/矢野修一訳『離脱・発言・忠誠』を読んで

 


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アメリカの著名な経済学者ハーシュマンによる古典的名著である。

まず、離脱、発言、忠誠という本書の基本的な概念について、私なりに簡単に解説しておきたい。

離脱は、exitのことである。つまり、ある組織のメンバーが、組織の衰退に際して、その組織から抜けることや、ある商品やサービスの購入者(消費者)が、商品の質の低下に際して、その商品の購入をやめることが離脱(exit)にあたる。

発言は、voiceのことである。つまり、ある組織のメンバーが、組織の衰退に直面して、組織の中枢等に対して「声を発する、意見する」ことや、ある商品やサービスの購入者が、その商品の質の低下に直面して、その商品の生産者に対して声を発する、意見することが、発言(voice)にあたる。

忠誠は、loyaltyのことである。ある組織や商品に対する、メンバーや消費者の愛着、忠誠心のようなものである。この強さが、以上のような組織や商品、サービスの衰退や質の低下を目の当たりにしたときの、組織のメンバーや、商品・サービスの購入者がとる離脱や発言といった行動の選択や内容に小さくない影響を与える。

本書を読む上で、重要なことだが、離脱は、経済学者の信奉してきたオプションであり、発言は、政治学者の信奉してきたオプションである。つまり、本書の基本的な構造は、離脱と発言の関係性、経済学と政治学の建設的で生産的な対話の形を採っている。

このようにみると、本書の中で展開される議論が非常に身近であることに気がつくであろう。

自身が、同じような局面に直面した時に、どのような意思決定をし、行動してきただろうか。そして、すべきなのか。このような視点で本書を読むのがおおよそ良いと思われる。

ここで本書を通じて、浮かび上がった考えをいくつかここに記しておく。

世の中には、例えば、児童虐待のような痛ましい事件が起こる。これを、本書の議論に当てはめて考えてみる。

児童は、基本的に、家庭から離脱もできなければ、発言もできない。だからこそ、最悪の場合、想像を絶する苦痛と悲しみの果てに親に命を奪われてしまうと考えることができないだろうか。

離脱も発言もできない状況は、このように深刻な状況、非常に好ましくない状況にあることが、この例から説明できると思われる。

そのとき、何が子どもの命を救うだろうか。

それは、日々、関心を持ってくれているご近所さんかもしれないし、幼稚園や保育園、学校の先生かもしれない。ひいては、児童擁護施設の人など、行政関係者がそうかもしれない。
最近では、「社会的な結び付き」「社会的ネットワーク」と言えるものが弱体化し、以上のようなアクターが非常に少なくなっている。

しかし、そのような中でも、もはや例外的かもしれないが、社会的ネットワークに救われる命はあるだろう。

こう考えてみると、離脱も発言もない状況におかれた者を救うには、「離脱や発言を助ける制度や社会づくり」が重要であることがわかる。

こうして、一見、どうしようもない状況に「可能性」を見出だしていく重要性は、本書が教えてくれる。

加えて、私たちの発言や行動の「まだ見ぬ可能性」を過小評価して、「発言や行動を断念」してしまうことの危うさもまた教えてくれたように思う。

また、以下は私のツイートの引用である。

離脱される組織・商品の質が悪化していることを前提にすると、石鹸やパンの購入をやめる(離脱)ことで、本人は不利益を被ることから逃れられるが、治安や教育の効果に関しては、それを供給する「社会」から「逃亡」しない限り、その消費に伴う不利益」(公的害悪)から逃れることができないという意味で、「完全に」離脱ができない。
以上を踏まえると、私的財からの離脱は、「単なる」離脱だが、公的財からの離脱は、抗議をしつつ退去すること、つまり、外部から公的害悪と戦うことになる。このことから、本書の112頁にあるように、公的害悪を以上のように明確に捉えるならば、公的害悪から「逃れようとするだけ」ではなく(実際には逃れられないのだから)、公的害悪に対して、その元凶の内部あるいは外部から、その元凶とそれが供給するモノ・サービスの改善のために「行動」することがいかに重要で、合理的なことなのかがわかる。そのような合理的な行動をとることが、我々に「安堵感」をもたらすということだろう。

最後に、矢野修一氏による「あとがき」から文章を引用する。 「本書で展開されたように、単純ともいえる概念を駆使しつつ、いろいろな場面を照射していくと、<中略>社会のあり方に関し、経済学だけ、あるいは政治学だけに依拠していてはみえなかったような問題が明らかになる。ハーシュマンの真骨頂はまさにこの点にある。既存の理論枠組みでは「これしかない」「このようにしかならない」という状況のなかで、「生起しつつある現実」に目を向け、ありうべき可能性の領域を広げようとするのが彼の主張する「ポシビリズム(possibilism)である。」 また、本書ではハーシュマンが「逃げたつもりでも逃げきれない局面があるという議論を展開し、個人の選択を出発点としながら社会的共同性へとつながる道筋を提示したのである。」

 

目の前にある非常な不満を見過ごすのか、それとも「可能性を信じて」変えていく具体的な努力をするのか、今日の全ての「社会人」に鋭く問われている。