進歩ジウム?!シンポジウム大学改革の潮流と下関市立大学の将来を終えて~ステークホルダーの持つべき視点~

 

f:id:s70708710:20191213235800j:image写真は、ある日の教室(筆者撮影)。

 シンポジウムは、16時30分から18時30分の予定だったが、長引いて19時を少し過ぎた辺りで閉会した。学生からも質疑応答の出鼻に指摘がなされたように、みんなで語ろう、というようなテーマが掲げられたものの、大半が基調公演者、パネラーからの一方的な議論になってしまった面がある。その分、時間が伸びたのである。

 弁護士の郷原先生、社会学者の石原先生に加えて、本学の関野先生、桐原先生によって進行した。

 まず、郷原先生によって、スライドを用いたプレゼン形式でのお話があった。「「社会的要請に答える」コンプライアンスの視点から公立大学自治を考える」と題したものだ。

 郷原先生は、「コンプライアンスとは法令遵守ではなく、組織が社会の要請に応えること」だと、主張した上で、公立大学が秘める、ガバナンスの暴走の可能性を指摘された。コンプライアンスの観点から、「地方自治体の首長中心のガバナンス」が「公立大学として社会的要請に応えること」と一致するのかといった問題提起もなされた。公立大学に対する、首長による権限行使は、ガバナンスの単純化を招きかねないということである。ガバナンスが単純化すれば、当然、首長による好き勝手な意思決定が為され、大学は私物化されてしまう。

 やはり、民主的な手続きを経なければ、より良いコンプライアンスは実現されないだろう。

 興味深い話として、学費を納めている学生がガバナンスにどこまで、どのように関わるかということがあった。

 これについては、郷原先生は一般的には、学生には、経営や研究、教育に対して適切な評価や判断を下す能力がないとしながらも、学生が適度にガバナンスに組み込まれることがあっても良いのではとのべた。

 質疑応答の中で、本学の教員から「なぜ、理事長や学長は、好き勝手するのか。理由がわからない」というような質問があった。

 それについては、石原先生から「独裁者のメンタリティがそうさせるのではないか。自分の思い通りの大学をつくりたい。自分のレガシーを築きたい。そういったことに加えて、保身的な所があるのではないか。」というようなことが回答された。

 たしかに、権力の乱用ということに関して、以上のことはあると思うが、やはり、端的には「自分たちのために、自分たちの儲かると思うやり方で、儲かるためにやる」という側面があるのではないか。ここに、本日のシンポジウムにおけるキーワードである「コンプライアンス」の視点が欠けてしまうという問題が見える。公立大学が社会の中で、何を求められているか。教員・学生は何を求めているか。単なる営利団体ではない、教育・研究機関という公共的な性格を持ち合わせる大学の自治・ガバナンスのあり方が、今問われているのであろう。

 以上を踏まえても、下関市立大学におけるガバナンスの単純化・首長による大学の私物化とも捉えることができる定款変更というものは、許してはいけないことである。

 郷原先生の基調講演の後には、石原先生がレジュメを用いて、「大学ガバナンスにおけるピアレビューと自治」と題した講演があった。そこでは、本学において、大学の人事や学部の新設などの、大学行政上の意思決定が、理事長や学長の独断によって決めれるようにルールが変えられようとしている現状が、大学の自治や学問の自由についての歴史的変遷や社会的な意義という視点から批判的に論じられた。

 石原先生は、その上で「公立大学における学部・学科・専門(専攻)分野の新設・改廃などを、地方自治体の政治的観点や(その意向を受けた)理事会等の経営的観点のみから決定してはいけない」と主張した。

 もし、そのような意向のみから様々な意思決定ができるようなルールになれば、権力者の意向に沿わぬ教員が不当な扱いを受け、排除されかねないだろう。

 そうなれば、大学の質は落ちていってしまいかねない。

 関野先生も、自治体と大学が対立するのではなく、また、どちらかがどちらかをマウンティングすることなくフェアに議論して、ありうべき方向に大学を導きたいということを述べた上で、我々学生との意見交換も望んでいると主張した。教員と学生、教員と学生と自治体そして市民といった多様なステークホルダーによる、公平な議論の場が拙速に求められているといえる。

 以上のような、大学の現状があるわけだが、具体的に我々学生はどうすべきか。

 この点についても、本学の学生から質問があった。

石原先生は、学生が団結する必要性を主張。そこに対しての、周囲のサポートも重要とのべた。この点については、シンポジウムの参加者から、「北九州市立大学には、学生の自治組織があり、定期的に活動している」といった話があった。

 下関市立大学も、同じ公立大学である。大いに参考になる事例かもしれない。

 郷原先生はそれに関連して、学生も重要なステークホルダーである場合があると述べた上で、卒業生にこそ、このような大学の社会的な評価を下げるような問題は不利益となりうるのだから、大きく関わっていると話した。

 また、本学の経営において、大半が学費で賄われているということを踏まえ、桐原先生も、「もっと学生のために投資をすべきだ」という見解を表した。

 「学費がどこに、どれくらい、どのように使われているか」このような視点も我々学生は持たなければならない。

 公費と学費によって運営される公立大学におけるガバナンスはいかにあるべきか、資金の拠出と発言の関係はいかにあるべきか、様々な論点が挙がった本日のシンポジウムであるが、これが、「進歩ジウム」になるかどうかは、我々学生一人一人の自治の意識と学問への誠実さにかかっているといえるのではないか。

 ※本稿は、シンポジウムにおける配布資料と、参加者の発言を基に、筆者が独自の視点でシンポジウムをまとめたものです。事実と異なる点がございましたら、訂正致します。本稿における、一切の責任は筆者に御座います。

 ※最終修正・加筆日は、2019年12月21日。

 

 

眉間にシワ

 この歳になって、色々な感覚が研ぎ澄まされてきたなぁと感じることがあります。

 食に関しては、風味だけじゃなく、食感を楽しめるようになったりですね笑。

 あと、だいぶ抽象的ですが、これまで面白かったことが面白くなくなったり、これまで面白くなかったことが面白くなったりします。

 まぁ、これはどの年齢でもそうですかね。けど、これ凄く大切で、やっぱり面白いと思う事象が増えること=幸せな気がしています。

 その辺は意識して生活しています。毎日、面白いことを増やせるようにですね。

 一方で、感覚的に過敏になっているところも多いような気がしています。周りの目や、言動をそんなに気にしなくて良いと思えば思うほど、気にしてしまったりすることがあります。

 まとめてみると(まとまってないかも)、あらゆる環境の要因に対して、これまでの人生のどの段階よりも丁寧に対応しているのかもしれません。

 ただ、そんなに丁寧に対応しなくていい、考えなくて良いこともあるわけで、そういうミスが増えると、心が乱れてしまうのかもしれません。

 本稿の題名にある「眉間にシワを寄せるのはやめよう」は、自分を含めた心に余裕のない人々へのメッセージです。

 人は、人の幸せのために生きる時、幸せになると思います。

 いつもしかめっつらのコンビニの店員や、ちょっと肩がぶつかっただけでギロりと人を睨み付けるバスの乗客、挨拶をしないご近所さん。ちょっとしたことで感情的になる人。

 彼らに共通しているのは、何でしょうか。

 それは、人に幸せを与える気持ちが不足していることだと思います。

 もしかすると、彼らは与えられたことがない、あるいは、与えられたことを忘れている人間なのかもしれません。ですから、彼らにも与えてみて、それでも駄目なら許してあげるといいのかもしれません。

 チャンスを与えて、それでも駄目なら許してあげる。これ、難しいのですが大切だと思います。

 こんなことを書いている私は、「与えられ、許されてばかり」の人間で、与えられ超過に許され超過の貿易赤字です…

 さぁ、今日も誰かに「与え」「許す」そんな気持ちを持って、頑張りましょう。

 心の栄養は足りてますか。私は足りていません。足りていない私だから、人に与えたり許したりなんてできないではなく、足りていないからこそ、人の心を満たすのです。結局「情けは人のためならず」だと思います。

 眉間にシワが寄っていませんか。これを読んだ貴方が、どうか笑顔でありますように。

 自分に優しく、人に優しく…

 大切なのは、「しわ寄せ」ではなく「しあわせ」です。

 

 

 

 

 

 

 

インバウンドを問い直す

はじめに

 12月7日に、京都大学紫蘭館にて、高崎経済大学さん、大分大学さんと3大学合同ゼミをさせて頂きました。

 京都へは、6年ぶりぐらいに行きました。この約6年、京都も様々な所が大きく変わったのかもしれません。

 本稿では、少なからず変わったであろう、京都のインバウンドの状況、観光の現状を、実際に歩いた経験とタクシーの運転手さんとの20分ほどの議論を基にして簡単に述べた上で、現在、政権の進めている観光立国の方向性を検討したいと思います。

 御笑覧頂けると幸いです。

インバウンドって?

 ここで、インバウンドという言葉について簡単に説明を載せておきたいと思います。

インバウンド(Inbound)とは、外国人が訪れてくる旅行のこと。日本へのインバウンドを訪日外国人旅行または訪日旅行という。これに対し、自国から外国へ出かける旅行をアウトバウンド(Outbound)または海外旅行という(JTB総合研究所 観光用語集より引用)。

 近年非常によく見聞きするようになったと思います。

 実際に、その伸びは凄い勢いで、先述の引用もとによれば、2015年には2005年に670万人であった訪日外国人旅行者数は、2015年には1,973万人を数え、実に1970年以来45年振りに、訪日外国人旅行者数が日本人海外旅行者数を上回ることになったということです。

 もちろん、その経済効果も大きなもので、2015年の訪日外国人1人当たりの旅行支出額は176,168円、旅行消費額は3兆4,771億円と推計されているようです。

 今後は、2020年の東京オリンピック、2025年には大阪万博が控えていますから、インバウンドの重要性は高まるばかりでしょう。

「金」閣寺?

 合同ゼミを終えて、翌日は、夜のフェリーの出航までの時間で、当初予定していた、清水寺ではなく、金閣寺に行こうということになりまして、金閣寺に行きました。

 ホテルから少々距離がありましたから、230円均一の市バスで向かうことになりました。

 本筋からは逸れますが、バスはどうも好きになれません。

 人が多く、狭い中で、とても揺れますし、なによりも両替と支払いが面倒で苦痛です。また、定時性が確保されないという路線バスの避けがたいデメリットもありますね。ただ、やはり両替と支払い、とりわけ支払いが苦手です。終点で降りるなら良いですが、途中のバス停だと、かなり急かされる感じがあります。やはり、並んでいる客と、乗客、運転手は待っているわけですからね。だいたい、混んでいるバスの運転手や乗客は感じが悪いようです。個人的にですけども。

 さて、話を本筋に近づけましょう。

 苦痛のバス旅を経て、やっと金閣寺道というバス停にて、下車しました。

 それはそれは、修学旅行以来の金閣寺ですから、懐かしかったです。

 入場料を払いまして、いよいよ金閣寺に入るわけですが、日曜日ということもあってか、関係ないのか判りませんけれども、ものすごい数の外国人観光客がいらっしゃるわけです。

 アジア系が多いかなぁという印象は受けましたが、実に多くの人種で溢れかえっていました。

 あちらこちらで写真をとったり、お金を投げたり、名物を食べたり、インバウンドであろうとなかろうと、色々するわけですけれども、あれほど人に溢れますと、金閣寺とその周辺の織り成す景観美はもちろん、金閣寺そのものの魅力を味わうにはしんどいものがあるなと感じました。まぁ、私は観る目もなく、景観や歴史的建造物への造詣は深くありませんけれども。

 下の写真は金閣寺とその周辺を撮ったものですが、よく見ると日本人旅行客と、インバウンドの人々が沢山映っているんです。

 日本人だけでは、あれほどの人混みにならないのではないですかね。

 

 
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【写真は筆者撮影:金閣寺と観光客】

 まず、そのような意味でインバウンド促進というのも考え物だと思うわけですけれど、そんな単純なことでもないと思うわけです。つまり、日本人旅行客に加えて、外国人観光客が押し寄せることで、観光地または景勝地の「アメニティ」としての価値は失われていくのではないかと危惧しているわけです。

 金閣寺にしろ清水寺にしろ、鮨詰めにされながらでは本来の良さがわからないのではないかと思います。なにより、地元の人々にとって、継続的に、大勢の観光客が押し寄せることは「アイデンティティー」の喪失と言えるのではないかと思います。これは、インバウンドに限らず、「日本人の観光」を考え直す論点でもあるでしょう。日本において、域外から、わんさか人を呼び集めて「お金」さえ落としてもらえたらそれで良いという節がありませんか。

 これは価値観の問題かもしれませんが、価値観の問題だからこそ問い直すべきでしょう。

 それこそ、金閣寺は、本来どんな価値を持っているでしょうか。今や「ドル箱」になってはいませんか。京都自体が「ドル箱」になりつつあるのではないですか。

 それどころか、もはや「人民元箱」「ウォン箱」「ユーロ箱」になってるのではないでしょうか。

 今一度考えるべきは、「観光地の本来の価値はなんなのか」だと思います。加えて、日本全国に存在する、観光地と潜在的な観光地の本来の価値をしっかり捉えたうえで、人を「正しく」呼ぶ体制・ルールをつくるべきだと思います。

 そのような文脈で「円箱」は許容の余地が比較的大きいと思います。その点については、以下で触れますが、特に外国人観光客が爆発的に増える中では、アイデンティティーの喪失の中身が変わると思います。やはり、日本人観光客と外国人観光客では、観光地に及ぼす効果には差が生じるでしょう。

 本稿では、インバウンドを問い直すということで、外国人観光客をどう考えるのか、という点も重要なのです。

 やはり、日本人と外国人では日本文化の理解度や日本語運用能力について、基本的に差があります。この点が、観光地に色々な影響を与えると考えます。

 以上2つの点に差があると、中々観光地の価値を理解されずに、マナーが悪くなってしまうことがあると思いますが、その中でも、日本人であればしないようなこと、日本語で説明すればわかることがある程度存在しているでしょう。

 タクシーの運転手さんは、「外国人観光客が増えて、運転にかなり気を使うようになった」と仰いました。たしかに、歩きスマホや自撮りは、日本人の中でも問題なのですが、外国人観光客の自撮りは異質で、もっと危険なのかもしれません。

観光地のパラドックス

 タクシーの運転手さんは、インバウンドの増加によって、日に日に変わる、京の街を目の当たりにしています。「祇園」は、静かなまちではなく、常に外国人観光客で溢れている騒がしいまちになっているようです。

観光地を観光地ならしめる結果として、観光地が本来持つ魅力を失うのです。これを、「観光地のパラドックス」とでも言いましょうか。

 また、ホテルが近年、建設ラッシュのようで、車の入れない路地に面したところにもホテルが建ち始めていると嘆いておられました。

 あちらこちらにホテルが建ち、どこの誰かもわからない人が、時間関係なく出入りする場が増えている現状は、まさにアメニティの喪失でしょう。治安の問題もゴミの問題もあります。

 美しい京都のまちは、どうなっていくのでしょう。

 タクシーの運転手さんも、どこにどんなホテルがあるかわからなくなっているということですから、かなりのペースでホテルが建っているようです。

 また、「こんなにホテルを建ち並べる必要があるのか」「そもそも需要があるのか」「万博が終わった後はどうなるのか」そのような疑問を呈していました。

 おそらく、国外向けの需要に応えようとしている、ホテルの建設ラッシュ。これは、放っておいて良いものでしょうか。

 「観光地のパラドックス」は、やがて不可逆的な日本文化の喪失を招きそうです。

観光資源を捉えるグローカルな視点~おわりにかえて~

 現政権は、「金」しか見えていない節があります。

 今回の合同ゼミの論文のテーマに関わりますが、原発推進政策にしてもそうでしょう。無論、原発は「儲からない危険な箱」ですが(このテーマは、別の機会に)。

 農業もそうでしょう。強い農業は、安倍さんにとって、「金」になる農業であり、それ以上でもそれ以下でもなさそうです。「金」にならないものは、残さないのでは早晩、日本文化は消えてしまうでしょう。

 資本主義の社会では、儲けが重要ですが(これも一面からの見え方に過ぎない)、それは必ずしも人間社会の幸せの実現や、進歩を意味しないでしょう。そこに、現在の日本における資本主義と幸福の実現との矛盾があると思います。 

 我々が求める豊かさは、いかにして達成されるべきでしょうか。

 いずれにしても、国民を無視、軽視し、政治的な議論から遠ざける現政権の下では「観光立国」は実現しないでしょう。

 経済成長のあるいは、黒字を出すための道具として、観光資源を捉えるのは間違いです。観光資源は、そこに在り続ける市民社会とともにあります。

あらゆるものを観光資源として活用するのは良いのですが、それらを脈々と受け継いで大切な心の拠り所としてきた人々の存在を軽視する国の方向性が顕在化しているように思います。

 グローバル化が加速する世の中において、守るべきものと、変えるべきものを再検討する必要がありそうです。

 

参考文献・参考資料

 

 本稿の考えを補足すると思われる文献として、以下のものを挙げておきます。

・中村良夫『風景学入門』中公新書http://www.chuko.co.jp/shinsho/1982/05/100650.html

日本経済新聞電子版『京都、「観光公害」への対応が課題に
京阪神、注目の動き振り返り』https://r.nikkei.com/article/DGXMZO53940140X21C19A2LKA000

 

※最終更新日2019.1.12

 

 

素人男子大学生による古典派音楽のススメ

クラシックとは

想像しやすいのは、ベートーベンやバッハ、チャイコフスキーといった音楽家の音楽。

基本的には、書物の古典と同じく、古典的な価値のある、つまり“時の試練”に耐え抜いた、“時代を越えて愛される”音楽と言って良いだろう。

それらは、“伝統的な西洋の音楽”と同義でもある。

オーケストラによるクラシック演奏の魅力

まずは、その豊かな音色と、それに伴う表現の豊かさ、そして、ある程度の規模のオーケストラになると、迫力を帯びる。

さらには、指揮者の指揮も、曲の調子のみならず、指揮者の個性も表現しているので、見ていて惹かれるものがある。優しそうな笑顔が印象的な、“お爺様”による老練でありながら、優しく、それでいて上品な力強さを見せる指揮もあれば、気鋭の大人の“小柄な女性”による、全身の筋肉を目一杯使った、激しく、力強い指揮も、“無垢な男子学生”による、“教科書通り”でありながらも、丁寧で、隙あらば、個性を覗かせる若さ溢れる指揮もある。

その、指揮に共鳴するように、オーケストラはクラシックを奏でる。その様は圧巻である。

無論、演奏は、舞台上の者だけで成り立つものではない。

それを聴く、客がいてはじめて、演奏は完成する。それは、読み聞かせが、“読み”ではないのと同じ理由である。聞き手がいて、聞いてもらうから読み聞かせである。

演奏を心から味わい、音楽家を尊敬し、そして、演奏の後には、惜しみ無く拍手を送り、音楽家は、それに応えて礼をし、また、演奏をするのである。

音楽も、スポーツと同じで生で“参加者”として体験するのが最も良い。

日本人であり、西洋に関する特別なルーツも造詣もない私が、不思議と西洋の“従順な自然”の下で生まれたクラシックミュージックに心から癒されるのである。

クラシックミュージックは、きっと産まれてはじめて聴いても美しいものなのではないか。

オススメの曲

こちらは、4分少々の序曲、つまり、始まりをつげる曲であるが、華々しい始まりのイメージのこの序曲中には、物事の始まりから終わりを全て包含したかのような、華々しさ、生き生きとした強さ、儚さ、優しさ、穏やかさ、弱さが詰まっている。

つまり、まるで奇想天外でありながらも、力強い人生のような曲である。全体としては、華やかで力強く、そして、美しい印象が強く、だからこそ序曲なのだろうと感じさせられる。

命あるものが持つ、繁栄と衰退のドラマを、前向きに、強く美しく凝縮した曲と私には感じた。

この序曲は、最初から最後までクライマックス!だと思っている。

人生もそんな風に見るといいかもしれない。

 

こちらも、全体として華々しく、力強い曲である。11分程ある。始まって、間もなく、その壮大で優雅かつ、品のある雰囲気が感じられる。

曲のイメージは、威厳のある壮年の男性という感じ。

もっとも有名である、リンク先の動画の8分あたりから始まるメロディーは、圧巻。

これほど荘厳で華美な音楽は中々ないのでは。

なんといっても、6分40秒あたりからはじまる、メロディーが堪らない。

こんなに高い次元で優雅さと力強さが、或いは、穏やかさと激しさが同居する旋律があるのか…という感じ。

曲の具体的なイメージとして、中世の、まだ女性としてのその地位を確立していなかった貴婦人が、女性としての誇りを誇示しつつも、華麗に舞う姿が脳裏に浮かぶ。

14分程あるが、上の二曲も同様、全体を通して、止まることなく聴いて頂きたい。

まとめ、お断り

この他にも、オススメの曲がまだまだありますが、とりあえず以上の3曲にとどめております。

決して、私は以上のような音楽は勿論、音楽一般の造詣が深い人間ではありません。

この記事は、無知でいながら、感じた、個人的なクラシックミュージックへの思いを形にしたものですので、どうぞ、暖かい目でご一読頂けますことを願っております。

知識が増えた後にも物事の魅力はありますが、それがない中で、自らの心のフィルムを通して味わう音楽があり、そこから得た感動(それがこの記事の要綱)に皆さんが少しでも共感を感じたり、そこからクラシックミュージックに興味を持ってくださったら、この上ない幸せです。

オススメの書籍

上記の書籍のレビューはこちら↓

http://www.『クラシック音楽のすすめ』(講談社現代新書)著・大町陽一郎.com/|https://ameblo.jp/sincostan5870/entry-12410086779.html

 

 

 

 

 

 

 

小学校の卒業式に参加して考えたこと-学校という小さな世界における平等とは、少数派とは

 昨日は、小学六年生の弟の卒業式に参加させて頂いた。

 午前中から雨天が心配されたが、見事な晴天に恵まれた。卒業式は午前中で終わり、午後からは天気が一気に下り坂となった。こうして、午前中の晴天は余計に有り難く感じられるのであったが、ただ一つ、不満をあげるなら、風が強く、ここ最近の中では、寒さが際立っていた点である。残念なことに、母の風邪は冷え込んだ体育館での約二時間の中で悪化し、明石家さんまの2倍は声がハスキーになった。

 話題を卒業式に戻す。よく考えてみれば、こういう機会は貴重であると思う。弟とは歳が8つ離れている故に、20歳にして(21歳が目前に迫るが)、小学校の卒業式に参加できた。そして、自分の卒業式の日を、自然に振り返る機会になった。約8年前の私の卒業式は、たしか、同じように晴天に恵まれた。

 ただ、その日は、たしか3月11日だったはずである。東日本大震災の日であった。

 式が終わり、家に帰るまで、それを知ることはなかった。

 その日、今だから言えるが、前日にインフルエンザと診断されたにも関わらず、なんとかして卒業式に強行出席したのであった。それゆえ、ほぼ全員の参加する、二次会(ボーリングだった)には参加できず、式が終わり次第、帰宅した。

 そして、帰宅後にテレビを見て、東北を中心に未曾有の大震災が起きたということを知ったのであった。

 あれから8年が過ぎた。そして、昨日、成人した自分は、再び弱冠にして小学校の卒業式に参加することになった。

 卒業式の日に、あのような大震災が起こった意味はないと思うが、人間が大自然の前では如何に無力で、小さな存在かということ、それゆえに、他人と助け合い、一生懸命に生きることが尊く、大切であるということを忘れないことが、私の使命であると思う。

 再び話題を戻す。保護者の視点で見る、初めての卒業式であった。特別な緊張感や高揚感の微塵もない初めての卒業式であった。

 私の小学校は、2クラスあり、60人程が一緒に卒業を迎えた。(ちなみに、私は小学4年生の途中に転校を経験した。これも、今考えても貴重な経験である。)だから、私の目に弟の卒業式の規模は、新鮮に映った。4クラス約130人の卒業生がそこにいた。保護者の数も、当然多く、小学校の比較的狭い体育館は、缶詰め状態であった。自ずと、最後尾の私の位置は、約130人の“主役”から、かなり遠くなった。

 中学校の私の学年は、120人足らずだったから、その中学校の卒業式を越える人数規模だったということになる。

 式は、人数が多いゆえ、比較的スムーズに進行した。

 ただ、“主役”の一人一人がしっかりと証書を受けとった。そして、各々が自らの席に戻る前には、証書を保護者席に、堂々と見せつけるのであった。このような演出を、私は経験したことがないが、卒業式のメインイベントに際して、保護者のシャッターチャンスが増えるのだから良いのだろう。個人的には、格好悪いと思うが。

 その後、校長、教育委員会の代表者からの祝辞が“主役”に贈られた。

 小学6年生に対しての祝辞を、大学2年生の耳で聴いた。

 校長からは、桜の蕾が膨らみ始めた、春のよき日に~という、御決まりの文句に続いて、
校長の祝辞は、キング牧師こと、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏の、

I have a dream”の演説についてだった。校長が、特に感銘を受けた部分は、そこそこ流暢な発音で原文を読まれていた。その重要部分は、

「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」引用元は以下「私には夢がある」(1963年)|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN演説については、こちらをご覧ください。日本語字幕がついています。https://youtu.be/eQ6q2cnVXqQ

という部分だった。人種差別は絶対悪であり、人類は平等の下に存在すべきだということを、これからを生きる者達に伝えたかったのだろう。 

 続いて、教育委員会の代表者からの祝辞。こちらは、持続可能な開発目標(SDGs)について。

持続可能な開発目標(SDGs)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2016年から2030年までの国際目標です。持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)ことを誓っています。引用元は以下(一部省略)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.html

 こうして見比べると、両者が共に、「平等」を訴えたことがわかる。

 様々な子どもが集まった学校という組織は、ある面で、世界の縮図であり、そこには様々な差別、不平等が存在している。

「イジメ」が社会問題になってから、時計の針はどれ程進んだだろうか。

「イジメ」とまではいかなくても、学校には明らかな差別や、不平等が存在している。

 それらを、今の教育委員会および、教育関係者の内の特に権力のある者が、どれ程真剣に考えているのか分からないが、彼らの言葉が少なくとも私に「響かない」のはどういう訳か。

 私も含め、まだまだ現代社会は少数派に厳しい。そして、私は弱く醜い人間である。だからこそ、私は変わろうとしている。意識できる範囲から、少数派を思いやることが大切である。

 私は、少数派に寄り添える人間でありたいし、自身が少数派に属することを恐れない人間でありたいと強くおもう。

 例えば、数が少ないことを理由に苦しめられている人を救うことで、自らが少数派に転じるような状況があろうとも、それを恐れないで、救いを必要とする人に、救いの手を差しのべる様な人間である。

 無論、少数派を救うことで、救った者が少数派に転じることがない社会には、もはや少数派と見なされる存在はいないのかもしれない。

 では、このことを学校に近づけて考えてみる。

 学校には、発達障碍(しょうがい)、身体的障碍といった様々な障碍を抱える児童、生徒が所属するクラスというのが大体ある。彼らは、そうした特別支援学級にクラスを持ち、通っているのである。(特別支援学校も数は少ないが存在する。そこでは、勿論、障碍児、障碍者は少数派ではない。)

 各々のクラスから、彼ら、彼女らは、毎度、緊張しながら“少数派”として、健常な多数派のいる“一般”級(健常な児童、生徒の所属する通常のクラス)へと、指定されたタイミングで向かうのである。

 彼ら、彼女らが、本当に笑顔で、自然体でいられる一般級はどれだけあるだろう。

 何らかのハンディキャップを抱えた彼らを、率先して助けようとする者は、経験からすると、クラスの中に二人程度しかいないのが常である。

 障碍の種類によって、接し方を変える必要があるのは勿論だが、“ゲスト”として、時より授業にやってくる者を、笑顔で、暖かく迎え入れる一般級はどれだけあるだろう。

 実際に、中学校では、“ガイジ(害児)”という言葉が流行った。

 “ガイジ”は害児から生まれた言葉らしい。例えば、友達がアホなことをすると、そこに向けてガイジと言うのである。

 集会で、先生が咎める必要がある程に流行った。

 未だに使う人は多く、アホとか、馬鹿と言えば済むところを、“害児”と言う同級生もいる。

 私は、そんなことを軽く口にできない。記憶する限りでは、使ったことがない。

 こんな風に、障碍者は理解されず、配慮されないことがある。

 先生の目が届かぬ所で、彼ら、彼女らは、馬鹿にされてはいないだろうか。軽蔑されてはないないだろうか。虐められてはないだろうか。

 私も通り過ぎて来た、小学校、中学校では、特別支援学級が存在したが、そこには必ずといっていい程、差別的な態度が存在していた。私だって、そういう態度が少なからずあったかもしれないが、それを意識して、彼らに寄り添える人であろうと努めてきたつもりである。

 小学校では、“同じクラス”のダウン症の女の子に寄り添った。そうするうちに、とても彼女に信頼されたのか、私は彼女に凄く好かれた。嬉しいものだった。

 中学校では、農村への宿泊体験の時に、同じグループに二人の特別支援学級の同級生がいて、一緒に行動した。そこに至った理由は、私が、彼らと日頃から“クラスの仲間”として接していたからだったと思う。二人のうちの一人は、一般級では笑うことも少なく、口を固く閉ざしているような生徒だった。しかし、日頃から声をかけたり、優しく接していると、私に対して、イタズラっ子の顔でちょっかいをかけるようになった。その顔は笑っていた。

 人が自分に対して心を開く瞬間というのを、何度か私は経験してきた。そして、その喜びが、私を彼ら、彼女らに対して、無関心ではいられなくしたのかもしれない。

 校長は、教育委員会の人間は、学校の少数派について何も言及しなかった。

 長く、まとまりのない文章になった。

 末筆になるが、世界における不平等に言及する前に、目の前の多数派の視点を、最も身近に存在している少数派に向け、寄り添う方向へと導く言葉が、彼ら、教育者の上層部にいる人間の口から、大切な日に聞きたかったと思いながら、この思いを、その翌日に表したものが、この文章である。

 身近な不平等に目を向けずして、世界の不平等に目を向けることはできないと思う。

 この記事を通じて、一人でも多くの人が、少数派に、とりわけ、障碍者を“理解”しようと努め、この先も、彼らを決して見離さないでいて頂けるのなら、この上ない幸せである。

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興味のある方は、以下の記事にもアクセスしてみてください。

(7)自閉症・情緒障害教育:文部科学省

 

 

 

 

 

 

 

環境と信仰

この世の中で、環境問題が起こることは経済学的には当然のことである。

私有地を除いた、海や山、川、インフラは全て公共財であるため、誰もが無料で好きなだけ利用できるから当然なのである。

公共の場所は、ゴミが捨てられ、乱雑に扱われ、行政が努力しなければ、瞬く間に荒廃してしまう。

そのような行動をする人の多くは、自分に損失がないことを前提にして行動しているのだろう。実際には、直接的、間接的に損失が生まれているにも関わらず、認識できていないためであろうが。また、認識をしているが、その事実が都合上宜しくないために、どこかえ捨て去ってしまっているのであろう。

公共の場所を乱雑に扱っても、自然以外であれば、やがて修復されるし、自然についても、もはや自分の生涯には支障はないと考えているのではないだろうか。

多くの人間は、自分と自分に関与する人間、環境さえ良ければいいのではないか。

見えていなければ気にならないのではないか。或いは、当事者でなければ他人事なのではないか。

これは、仕方がないことで、私だってそうである。

ただし、認識できていなかった損失が、本当の意味で認識できた時には、多くの人間が行動を改めるだろう。あるいは、見えていなかった世界が見えた時には、多くの人間の行動が環境に優しくなるだろう。

環境に配慮することは、紛れもなく人類にとっての共通の利益を生むからである。

自分の関わる孫までなら頑張るが、曾孫の世代はどうでもいいなんてことはないはずである。

ただ、環境問題は未だに解決の糸口が見えていない。

そこで、何らかの(広義での)宗教を信仰している人間の環境に対する配慮について、ひとつ仮定の話をしたい。

例えば、ある神を信仰しているとして、その神が善良な神であれば、信者は善良な行動をとらねばならない。神は見ているからである。天国に行くものが、この世で善行をしたものであるなら、海にゴミを投げ捨てたり、過剰に森林を伐採したりすることは簡単にはできないだろう。そのような単純な理屈で、宗教の信仰は環境に良い場合があると考えられる。

権威のある宗教家が、環境に対する配慮をより強く説くことは、役人が、スローガンを打ち出すよりも実効性があるかもしれない。

これは、宗教信仰の持つ、一つの良い側面である。

また、こんな自分は許せないといった信条も、ある面で宗教における神のごとく機能することになる。

私の場合は、とりわけ信条に従って行動しているが。ただ、これも、信条を信仰していると言えるかもしれない。

公共財としての環境に配慮することは、他人に配慮することである。

ならば、他人に優しい人間である、という信条に今一度、忠実になるべきだろう。

 

 

ナルシズムがもたらす社会への好影響

 

ナルシズムが良いものとして語られることは、少ないのではないだろうか。

しかし、ナルシズムを適切に、教育の中に取り入れることで、自分を大切にできる人間を育てることができると考えている。

自分が大切にできる人間は、自らの命を断とうとはしない。また、自信を持っていることで、いじめを受ける可能性を減らすことができるかもしれない。

さらには、自らの不満を原因とした犯罪率の低下にも繋がるだろう。

自分を大切にできない人が、他人を大切にできないなんてことも耳にしたことは、誰しもあるのではないか。

今では、InstagramをはじめとするSNSを通じて、自分を発信することで承認欲求を満たすとを通じて、自分に自信を持つ人も増えたかもしれない。

ただ、それでも、例えば欧米人に比べて、自信の無さが滲み出る程度が大きい人は、日本人に関しては多い気がしている。そして、それが日本の暗さに繋がっているとも考えている。

これまでも、ナルシストは嫌われる要素として何度も話題になった。
たしかに、鏡をいつまでも、何回も見つめ、自分の容姿に見とれる姿を周囲に晒すことは、周囲の人としても違和感があるだろう。

言うまでもないが、自分が好き過ぎるために、自分に関する話ばかりをする、所謂、自分語り人間は好まれないことは当然である。過剰な場合や、それが周りに迷惑な場合を除いて、自分を愛することは、自分のことを大切にすること、自分に自信をもつこと、と同義であるから、むしろ、褒められるべきことである。
ここで例をあげると、日本でフィットネス文化の発展が遅れている一因にも、反ナルシズムの風潮が関係していると考えている。

自分の身体を鍛え上げ、なりたい自分になることは、自分を好きになることに繋がる。

そして、自分に自信が持てるようになるフィットネスは適度な場合には非常に良いものである。
筋トレの宣伝の様になってしまったが、これは欧米人と日本人のナルシズムに対する認識の差違を特徴づける事例であると考える。

また、十分なナルシズムを持った子供を育てることに意義を見出だすことができる。
子供がいじめをする、またはされるという時には、そこに劣等感を伴うことが多いと考えられる。いじめの当事者は、他者より何かしらで劣った人間だという感情を、他者を貶めることで蔑ろにすると考えるからである。

いじめのターゲットとされる側に一切の責任がないことは明らかである。
ただ、いじめの標的となる可能性を低下させる力がナルシズム教育にはある。
子供が自信を持って学校に通い、ある分野で活躍できる場があれば、その子供は学校で居場所を得られることにも繋がる。子供には、運動、芸術、学問など、なにかそれを磨くことにより、学校教育の中で活躍できる能力を一つでも良いから植え付けさせるべきだろう。

例えば、足がかなり速ければ、それだけで彼は自信や、学級内での居場所、アイデンティティーを形成することができ得る。そのように、自分にこれだけは自信があるという何かを持つことは、非常に大切な、自己防衛であり、健全な発育の過程である。そのような状態に子供を置くためには、褒めて伸ばす教育は非常に有効であろう。褒められることで、自信が持てるようになるからである。
学校で活躍できるような能力水準に達することが、どの分野においても出来なかった場合でも、親だけは子供を常に肯定的に捉えて、例えば、性格や容姿を褒めて、自信をつけさせなければいけない。それは甘やかすこととは異なる。

ただ、常に様々な競争に晒される発育期においては、子供が自信を失ってしまわないように気を配らなければいけないだろう。
もちろん、このような話では、自尊心が大切。
自尊心は、ナルシズムと密接に関わり合っているからである。
健全な自尊心があれば、他者に対して思いやりを持つことが当たり前にできるはずである。
慎重かつ丁寧な教育の末に、自分のことが好きで、自信があり、他者に対しても優しい人間が育つことが最も望ましいことである。