インバウンドを問い直す
はじめに
12月7日に、京都大学紫蘭館にて、高崎経済大学さん、大分大学さんと3大学合同ゼミをさせて頂きました。
京都へは、6年ぶりぐらいに行きました。この約6年、京都も様々な所が大きく変わったのかもしれません。
本稿では、少なからず変わったであろう、京都のインバウンドの状況、観光の現状を、実際に歩いた経験とタクシーの運転手さんとの20分ほどの議論を基にして簡単に述べた上で、現在、政権の進めている観光立国の方向性を検討したいと思います。
御笑覧頂けると幸いです。
インバウンドって?
ここで、インバウンドという言葉について簡単に説明を載せておきたいと思います。
インバウンド(Inbound)とは、外国人が訪れてくる旅行のこと。日本へのインバウンドを訪日外国人旅行または訪日旅行という。これに対し、自国から外国へ出かける旅行をアウトバウンド(Outbound)または海外旅行という(JTB総合研究所 観光用語集より引用)。
近年非常によく見聞きするようになったと思います。
実際に、その伸びは凄い勢いで、先述の引用もとによれば、2015年には2005年に670万人であった訪日外国人旅行者数は、2015年には1,973万人を数え、実に1970年以来45年振りに、訪日外国人旅行者数が日本人海外旅行者数を上回ることになったということです。
もちろん、その経済効果も大きなもので、2015年の訪日外国人1人当たりの旅行支出額は176,168円、旅行消費額は3兆4,771億円と推計されているようです。
今後は、2020年の東京オリンピック、2025年には大阪万博が控えていますから、インバウンドの重要性は高まるばかりでしょう。
「金」閣寺?
合同ゼミを終えて、翌日は、夜のフェリーの出航までの時間で、当初予定していた、清水寺ではなく、金閣寺に行こうということになりまして、金閣寺に行きました。
ホテルから少々距離がありましたから、230円均一の市バスで向かうことになりました。
本筋からは逸れますが、バスはどうも好きになれません。
人が多く、狭い中で、とても揺れますし、なによりも両替と支払いが面倒で苦痛です。また、定時性が確保されないという路線バスの避けがたいデメリットもありますね。ただ、やはり両替と支払い、とりわけ支払いが苦手です。終点で降りるなら良いですが、途中のバス停だと、かなり急かされる感じがあります。やはり、並んでいる客と、乗客、運転手は待っているわけですからね。だいたい、混んでいるバスの運転手や乗客は感じが悪いようです。個人的にですけども。
さて、話を本筋に近づけましょう。
苦痛のバス旅を経て、やっと金閣寺道というバス停にて、下車しました。
それはそれは、修学旅行以来の金閣寺ですから、懐かしかったです。
入場料を払いまして、いよいよ金閣寺に入るわけですが、日曜日ということもあってか、関係ないのか判りませんけれども、ものすごい数の外国人観光客がいらっしゃるわけです。
アジア系が多いかなぁという印象は受けましたが、実に多くの人種で溢れかえっていました。
あちらこちらで写真をとったり、お金を投げたり、名物を食べたり、インバウンドであろうとなかろうと、色々するわけですけれども、あれほど人に溢れますと、金閣寺とその周辺の織り成す景観美はもちろん、金閣寺そのものの魅力を味わうにはしんどいものがあるなと感じました。まぁ、私は観る目もなく、景観や歴史的建造物への造詣は深くありませんけれども。
下の写真は金閣寺とその周辺を撮ったものですが、よく見ると日本人旅行客と、インバウンドの人々が沢山映っているんです。
日本人だけでは、あれほどの人混みにならないのではないですかね。
【写真は筆者撮影:金閣寺と観光客】
まず、そのような意味でインバウンド促進というのも考え物だと思うわけですけれど、そんな単純なことでもないと思うわけです。つまり、日本人旅行客に加えて、外国人観光客が押し寄せることで、観光地または景勝地の「アメニティ」としての価値は失われていくのではないかと危惧しているわけです。
金閣寺にしろ清水寺にしろ、鮨詰めにされながらでは本来の良さがわからないのではないかと思います。なにより、地元の人々にとって、継続的に、大勢の観光客が押し寄せることは「アイデンティティー」の喪失と言えるのではないかと思います。これは、インバウンドに限らず、「日本人の観光」を考え直す論点でもあるでしょう。日本において、域外から、わんさか人を呼び集めて「お金」さえ落としてもらえたらそれで良いという節がありませんか。
これは価値観の問題かもしれませんが、価値観の問題だからこそ問い直すべきでしょう。
それこそ、金閣寺は、本来どんな価値を持っているでしょうか。今や「ドル箱」になってはいませんか。京都自体が「ドル箱」になりつつあるのではないですか。
それどころか、もはや「人民元箱」「ウォン箱」「ユーロ箱」になってるのではないでしょうか。
今一度考えるべきは、「観光地の本来の価値はなんなのか」だと思います。加えて、日本全国に存在する、観光地と潜在的な観光地の本来の価値をしっかり捉えたうえで、人を「正しく」呼ぶ体制・ルールをつくるべきだと思います。
そのような文脈で「円箱」は許容の余地が比較的大きいと思います。その点については、以下で触れますが、特に外国人観光客が爆発的に増える中では、アイデンティティーの喪失の中身が変わると思います。やはり、日本人観光客と外国人観光客では、観光地に及ぼす効果には差が生じるでしょう。
本稿では、インバウンドを問い直すということで、外国人観光客をどう考えるのか、という点も重要なのです。
やはり、日本人と外国人では日本文化の理解度や日本語運用能力について、基本的に差があります。この点が、観光地に色々な影響を与えると考えます。
以上2つの点に差があると、中々観光地の価値を理解されずに、マナーが悪くなってしまうことがあると思いますが、その中でも、日本人であればしないようなこと、日本語で説明すればわかることがある程度存在しているでしょう。
タクシーの運転手さんは、「外国人観光客が増えて、運転にかなり気を使うようになった」と仰いました。たしかに、歩きスマホや自撮りは、日本人の中でも問題なのですが、外国人観光客の自撮りは異質で、もっと危険なのかもしれません。
観光地のパラドックス
タクシーの運転手さんは、インバウンドの増加によって、日に日に変わる、京の街を目の当たりにしています。「祇園」は、静かなまちではなく、常に外国人観光客で溢れている騒がしいまちになっているようです。
観光地を観光地ならしめる結果として、観光地が本来持つ魅力を失うのです。これを、「観光地のパラドックス」とでも言いましょうか。
また、ホテルが近年、建設ラッシュのようで、車の入れない路地に面したところにもホテルが建ち始めていると嘆いておられました。
あちらこちらにホテルが建ち、どこの誰かもわからない人が、時間関係なく出入りする場が増えている現状は、まさにアメニティの喪失でしょう。治安の問題もゴミの問題もあります。
美しい京都のまちは、どうなっていくのでしょう。
タクシーの運転手さんも、どこにどんなホテルがあるかわからなくなっているということですから、かなりのペースでホテルが建っているようです。
また、「こんなにホテルを建ち並べる必要があるのか」「そもそも需要があるのか」「万博が終わった後はどうなるのか」そのような疑問を呈していました。
おそらく、国外向けの需要に応えようとしている、ホテルの建設ラッシュ。これは、放っておいて良いものでしょうか。
「観光地のパラドックス」は、やがて不可逆的な日本文化の喪失を招きそうです。
観光資源を捉えるグローカルな視点~おわりにかえて~
現政権は、「金」しか見えていない節があります。
今回の合同ゼミの論文のテーマに関わりますが、原発推進政策にしてもそうでしょう。無論、原発は「儲からない危険な箱」ですが(このテーマは、別の機会に)。
農業もそうでしょう。強い農業は、安倍さんにとって、「金」になる農業であり、それ以上でもそれ以下でもなさそうです。「金」にならないものは、残さないのでは早晩、日本文化は消えてしまうでしょう。
資本主義の社会では、儲けが重要ですが(これも一面からの見え方に過ぎない)、それは必ずしも人間社会の幸せの実現や、進歩を意味しないでしょう。そこに、現在の日本における資本主義と幸福の実現との矛盾があると思います。
我々が求める豊かさは、いかにして達成されるべきでしょうか。
いずれにしても、国民を無視、軽視し、政治的な議論から遠ざける現政権の下では「観光立国」は実現しないでしょう。
経済成長のあるいは、黒字を出すための道具として、観光資源を捉えるのは間違いです。観光資源は、そこに在り続ける市民社会とともにあります。
あらゆるものを観光資源として活用するのは良いのですが、それらを脈々と受け継いで大切な心の拠り所としてきた人々の存在を軽視する国の方向性が顕在化しているように思います。
グローバル化が加速する世の中において、守るべきものと、変えるべきものを再検討する必要がありそうです。
参考文献・参考資料
本稿の考えを補足すると思われる文献として、以下のものを挙げておきます。
・中村良夫『風景学入門』中公新書http://www.chuko.co.jp/shinsho/1982/05/100650.html
・日本経済新聞電子版『京都、「観光公害」への対応が課題に
京阪神、注目の動き振り返り』https://r.nikkei.com/article/DGXMZO53940140X21C19A2LKA000
※最終更新日2019.1.12