環境と信仰

この世の中で、環境問題が起こることは経済学的には当然のことである。

私有地を除いた、海や山、川、インフラは全て公共財であるため、誰もが無料で好きなだけ利用できるから当然なのである。

公共の場所は、ゴミが捨てられ、乱雑に扱われ、行政が努力しなければ、瞬く間に荒廃してしまう。

そのような行動をする人の多くは、自分に損失がないことを前提にして行動しているのだろう。実際には、直接的、間接的に損失が生まれているにも関わらず、認識できていないためであろうが。また、認識をしているが、その事実が都合上宜しくないために、どこかえ捨て去ってしまっているのであろう。

公共の場所を乱雑に扱っても、自然以外であれば、やがて修復されるし、自然についても、もはや自分の生涯には支障はないと考えているのではないだろうか。

多くの人間は、自分と自分に関与する人間、環境さえ良ければいいのではないか。

見えていなければ気にならないのではないか。或いは、当事者でなければ他人事なのではないか。

これは、仕方がないことで、私だってそうである。

ただし、認識できていなかった損失が、本当の意味で認識できた時には、多くの人間が行動を改めるだろう。あるいは、見えていなかった世界が見えた時には、多くの人間の行動が環境に優しくなるだろう。

環境に配慮することは、紛れもなく人類にとっての共通の利益を生むからである。

自分の関わる孫までなら頑張るが、曾孫の世代はどうでもいいなんてことはないはずである。

ただ、環境問題は未だに解決の糸口が見えていない。

そこで、何らかの(広義での)宗教を信仰している人間の環境に対する配慮について、ひとつ仮定の話をしたい。

例えば、ある神を信仰しているとして、その神が善良な神であれば、信者は善良な行動をとらねばならない。神は見ているからである。天国に行くものが、この世で善行をしたものであるなら、海にゴミを投げ捨てたり、過剰に森林を伐採したりすることは簡単にはできないだろう。そのような単純な理屈で、宗教の信仰は環境に良い場合があると考えられる。

権威のある宗教家が、環境に対する配慮をより強く説くことは、役人が、スローガンを打ち出すよりも実効性があるかもしれない。

これは、宗教信仰の持つ、一つの良い側面である。

また、こんな自分は許せないといった信条も、ある面で宗教における神のごとく機能することになる。

私の場合は、とりわけ信条に従って行動しているが。ただ、これも、信条を信仰していると言えるかもしれない。

公共財としての環境に配慮することは、他人に配慮することである。

ならば、他人に優しい人間である、という信条に今一度、忠実になるべきだろう。