大島堅一(2011)『原発のコスト』岩波新書を読んで:大切なことは何か

 

 


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はじめに

内容の振り返り

・当事者として国の政策を疑う

・本書の全体像

・被害の捉え方と本質

・被害の補償における費用負担の問題点:私たち1人1人の問題として考える

・「原発のコスト」をどう考えるべきか

・元凶としての「原子力村」

・「脱原発」と「再生可能エネルギー

・受益者ではなく被害者として「原発立地地域」を捉える:公平な社会へ向けて

おわりに

 

はじめに

震災後9年が経過したが、メディア等の報道を見る限りでは、被災地は被災地のままであることを疑いようがない姿であるように思う。環境と経済学を曲がりなりにも、関心を持って勉強するうちに、いかに東日本大震災が世界の政治経済に大きな影響を与えたのかが理解できるようになったし、震災がもたらした被害の甚大さ、恐ろしさ、事故に繋がった様々な問題点とそこに未だに存在する重要な論点を知ることになった。

 そのような中で、一度も被災地には足を運んでいないため、いずれはこの目で「復興」そのものを見つめたいと思っている。

 『原発のコスト』は、言わずと知れた「原発の書」である。著者である大島堅一氏は、地元が福井県であり、そこはいわば「原発城下町」である。そんな背景もあり、大島氏は、震災前から、日本の原発推進体制に警鐘を鳴らしてきた。本書の前には、2010年に東洋経済新報社再生可能エネルギーの政治経済学』が出版されており、こちらは、再エネ、原発の両方について非常に詳細に書かれている。そして震災後の2012年には、同出版社から『原発はやっぱり割に合わない』が出版されるなど、大島氏の著作は原発に関心を寄せる人々の、必読書たり続けている。精力的にシンポジウム等も行っており、メディア等への出演も多い。

内容の振り返り

当事者として国の政策を疑う

 では、内容を振り返ろう。「原発のコスト」が最大のテーマであるが、単刀直入に言えば「原発は高い」のである。それが本書のメッセージである。

 国のエネルギー政策に多少なりとも関心のある方であれば、「原発は大規模に発電出来て、効率が良く、従って安い」という国の喧伝通りの見識を持っておられるのではないか。

 そこで思考停止せずに、「本当に安いのか?」という風に、その根拠は何かを突き詰めて考えようというのが本書の狙いであろう。

 国の示す「脚色された情報」がいつも正しいとは思わないことが重要であるという事実は、安倍政権の度重なる不祥事だけを見ても、明らかであろう。

 こと、エネルギー政策については、とりわけ重要であるから、国民はこれに関心を持っていなければならない。国民のほとんどは「大手電力会社」から電力を買っているのであるから、その電気が「どのように」「どれだけのコストを使って」生み出されているのか、を考えることは当然のことなのである。

 そして、福島の原子力発電所の事故を見ても明らかなように、たとえ電気を買っておらず、自給自足生活を営んでいるような人々をも脅かすのが「私たちの電力源としての原発」なのである。

本書の全体像

 本書は、東日本大震災に伴って起きた、「原発事故そのもの」とその「被害の全容」、そして「原発を使って発電をすることでかかるコスト」を丹念に記述している。最後には、「脱原発の実現可能性」を示している。非常に説得的な内容と構成を持つ。

 とりわけ重要なのは、原発事故がどのような不備を背景として起こったのかという、「原発事故の必然性」の把握と、原発事故の被害はどこの誰にどれだけ及んだと捉え、どこまで、どのように補償していくべきなのかということ、原発というあまりにも危険な大規模技術的を動かすにあたって、様々な「見えるコスト」「見えないコスト」があり、それらを踏まえた「原発のコスト」をどう考えるかという点である。

被害の捉え方と本質

 被害の全容については、「復興」を進めるにあたっての重要な前提である。それは、被害が決まらなければ補償の内容も救済の内容も決まらないからである。「補償」の意味については、原発事故補償を研究している除本理史が、2014年の北海道大学の紀要論文、「戦後日本の公害問題と原発事故」『経済学研究』の中で、「「賠償」を含むより広い概念として「補償」の語を用いている。「補償」は、法的な賠償責任を前提としない場合(たとえば 「社会的責任」など)を含み、また、金銭賠償を越えた広義の「償い」をも含意する」と述べており、重要に思う。本稿では、これに習い賠償も含む、幅広い意味での補償として補償を用いている。

 物理的・精神的被害は本書にあるように、日本全土に及んでいる。放射線は、九州地方にまで飛んできているし、周辺の放射能汚染についても、図1-1を見れば一目瞭然であるが、事故時の風向きと、風の強さによって必ずしも、近い程汚染度合いが高いわけではないことがわかる。つまり、放射能汚染の被害には地理的にもムラがあるのだ。

 また、原発従事者の被ばくは事故処理において深刻なレベルであることにも触れられている。言うまでもなく、被ばくによる人体への影響は大きな不確実性を孕んでおり、被害者への長期的な補償と、健康を保障するためのあらゆる支援を責任主体が行っていかなければならない。

 事故の被害を捉える上で重要な点だが、被害には2種類ある。①金銭的な評価が可能な被害②金銭的な評価が不可能な被害である。大島氏が述べているように、被害において本質的なものは、②の金銭的な評価が不可能な被害である。それは、そのような被害は、いくらお金をかけても不十分で、完全に元通りにすることができない不可逆的な被害だからである。不可逆的な損失には、高度の汚染によって「ふるさと」を失うという被害(「ふるさとの喪失」と言われる)や、被ばくによる「健康の喪失」、一時的な(とはいえ何年にも及ぶ)避難によって、元々のコミュニティへの復帰が困難になる「コミュニティの喪失」等が含まれる。当たり前だが、被ばくし、殺処分された家畜は二度と戻ってこない。多くの精神的苦痛は②であるという認識が重要だろう。だからこそ、「原発推進の是非」は慎重に議論しなければならない。

被害の補償における費用負担の問題点:私たち1人1人の問題として考える

 被害を捉え、確定し、いよいよ賠償が行われるが、本書で明らかにされるのは、国と東電の「責任主体」としての自覚の甘さが露呈した、被害の認識と賠償のやり方である。原発事故被害額は、少なくとも10兆円規模で、20兆円を超えても不思議ではない。本書の時点では、「原状回復費用」は不明とされている(詳しくは表2-1を参照)。

 そして、それらにかかる費用は、一義的には直接の原因者である「東電」によって支払われることになっているが、一部は、全国の原発保有する電力会社からも支払われることになっており、それらは「電気料金」として我々に「価格転嫁」(つまり責任転嫁)されているのである。その意味で、我々は知らず知らずのうちに「東電の尻拭い」をさせられているのである。

 翻って言うと、原子力発電所の事故被害は甚大なため、たかだか大手民間会社には、いざという時に「責任をとれない」ものである。だからこそ、原子力発電所を動かすことの責任の重さとリスクを認識したうえで、我々はエネルギー政策を検討しなければならないのである。

原発のコスト」をどう考えるべきか

 以上のようなリスクも含めたコストは、当然考慮して「原発のコスト」を考えるべきであるが、原発の発電に要するコストは本当に安いのか。これについては、見えないコスト(発電単価を計算する式に含められていなかったコスト)が重要である。

 それは例えば、莫大な宣伝費用を含めた原発推進にかかるコストや、立地地域へ支払う電源三法交付金などのいわゆる「政策コスト」である。これらも、国家財政からの支出であり、これがなくては原発は立地できないばかりか、発電ができないのだから、これらのコストを「原発の発電コスト」と考えることは当然、正当化されるべきだろう。詳しくは本書の図3-2等を参照されたいが、原発立地地域には数十億円が毎年支払われる。だからこそ、小さな産業のない地域は、原発に手を出してしまう。ただし、当然、住民の意志により民主的に決まるばかりではないだろう。原発のリスクについては、地域住民と行政担当者・事業者とでは持つ情報に大きな差があり、当然後者が圧倒的に多くの情報を知っている(経済学的には「情報の非対称性」)からであるし、利権とカネが絡むからである(原発の政治経済学的な側面)。あわせて、原発にかかる具体的な金額については表3-2も参照されたい。

元凶としての「原子力村」

 こうして生まれるのが、国・自治体・電力会社・原発立地地域住民の複合体、つまり「原子力村」である。ここでは詳しく述べないが、「原子力村」は組織として非常に不健全な側面を持ち、これらが原発安全神話を信仰・布教することで、いくどとなく原発関連の事故が起こってきたことは見逃してはならない重要な論点である(詳しくは、高木仁三郎(2000)『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書等を参照されたい)。

脱原発」と「再生可能エネルギー

 最後には、「脱原発」の必要性と実現可能性、そして脱原発は何を我々にもたらすかが述べられる。具体的には、「脱原発」の内容は、原発を止めて、21世紀にふさわしい「安全で安心でクリーン」な再生可能エネルギーに代替しようということである。本書の書かれた2011年時点では、再生可能エネルギーの発電コストは世界的にも国内的にも他電源に比較して現在よりはるかに高かったが、2020年現在では、とくに世界的にみると、最も安価な電源になりつつある。太陽光発電風力発電は、その筆頭である。

 再生可能エネルギーについても多くの利点があり、それは欠点を補って余りあるものだと私は考えるが、皆さんはそう考えるだろうか。もし、判断材料が足りないと思うのであれば、ぜひ本書を手にとっていただきたい。

受益者ではなく被害者として「原発立地地域」を捉える:公平な社会へ向けて

 いつの時代も、私たちは、「エネルギー」を用いて生きている、あるいは生かされているのである。そのエネルギーの使用価値は同じであっても、その使用に伴って「どこかで被害が生じていないか」「どこかで、いつか被害が生じるのではないか」このような視点を本書は提供していると思われる。

 憤りを隠せない浅はかな考え方として、タイムリーな問題だが「汚染土等の放射性廃棄物の管理」つまり、放射性廃棄物をどこにおくかという問題をめぐって、例えば、東京の人間が「原発立地地域は多額の補助金(先の電源三法交付金等だろう)を受け取っているのだから、文句を言うな」というものがある。これは、原発推進の政治経済的側面を無視しているだけでなく、原発事故被害を理解していないからこその意見だと思う。原発立地地域のリスク負担といざというときの事故被害を前提として、自らの消費する電力が送られてきていることを考えなければならない。原発立地地域は「受益者」ではなく、「被害者」であるとの認識が重要ではないか。

 あなたのまちに原発が立地するとして、多額のお金でそれを受け入れるだろうか。

つまり、生産地と消費地が分離された原発問題は、そのような「公平性」も含めて、「自分のこととして」考える必要があるのではないか。

おわりに

 長くなったが、最後に宇沢弘文の歴史的名著『自動車の社会的費用』から、次の一文を引用しておきたい。自動車は、原発。自動車通行は、原発の利用と置き換えてみることができると思う。

 「自動車の社会的費用を考えるときに、たんに自動車通行という点だけを取り出して考えることはできない。社会的費用の概念の背後には、必ず、わたくしたちがどのような生活を欲していると考えるのか、またどのような資源配分、所得分配の制度が望ましいと考えているのか、という点にかんする一つの社会的価値判断が前提とされている」(173頁より引用)」。

 

最終稿2020.4.30