人生は極めて変数の多い函数であるという認識から話を始めたい。


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 人生で未だかつてない程、うじうじと鬱々とただ慣性に身をゆだねるようにして日常を垂れ流しにしているここ数か月であるが、その一方で多くのことを考えてきたように思う。

 日常を垂れ流すことも、罪なことかもしれないし、日々の思考を垂れ流すのも罪なことかもしれない。いや、罪に違いない。社会に生きるなら、自己満足なことばかりで毎日を生きてはいけないと思う。

 どこかの誰かのいつかの何かになることを祈って、ブログは書いていこうと改めて思った次第だ。

 「関数」これを、「函数」としたことには、少しばかり意味がある。漢字は表意文字であるから、できるだけ意味を直接的に表す漢字を使いたい。関数は、ある「函(はこ)」に数字を入れたら、なんらかの数字が、函から出てくるというものであるらしい。たしかにそうだ。

 人生も函数として捉えることができる。早く寝れば早く起きれるし、恋に落ちれば幸せになったり、雨が降れば気がどんよりするものである。

 この函数は、ひとりひとり切片も傾きもことなるし、変数の種類も数も異なっている。

 切片は、心のタフネス度合いかもしれないし、傾きはある外的要因(変数;例えば、結婚や親の死、転居など)に対する当人の反応度合い(弾力性)かもしれない。

 その意味で、この世に一つとして同じ函数はなく、言い換えれば、同じ人生はないということになる。

 自らの函数の特徴を掴むことは、自信を客観的に分析することであり、ネガティブな変数にたいして、それを効果的に打ち消す操作を導くと思う。

 ただ、あまりに変数が多いと、それはスパゲッティ・ボウルのように複雑に絡み合い、困難な状況から抜け出すことができない。

 時には、色々な関りから距離をとって、どこにある、何が、自分を幸せにするのか、はたまた苦しめるのか考えた方が良いのかもしれない。

 人生は、短期的にみれば二次関数の形をしていて、中・長期的にみれば三次関数の形をしているのではないか。

 上り下りがあるのが人生であり、できればずっと上っていたいのも人生である。

 さて、問題は、下り坂だと認識せざるを得ない時に「どう生きるか」である。

 下り坂の距離は、できる限り縮めたい。一刻もはやく上りたいものである。

 そうすると、理論的に道は三つある。上り坂を、今この目の前に「見出す」あるいは「つくり出す」、そしてもう一つは、振り返って、下ってきた坂を「引き返す」ことであると思う。

 どうしようもない不安と苦悩の中において、もがくこともできない程、魂が疲弊した状況において、それでもなお生きるために、視野を広げてみる、手の届く範囲からがれきを拾い集めて、踏み台にしてみる。そして、これができるのは「根拠のない希望」が持てる人だけなのかもしれない。

 アンジェラ・アキ風には、「消えてしまいそうな時」こそ、楽観的に能天気に明るく前向きにであろうか。

 さらに、下り坂が振り返れば上り坂であるという「逆転の発想」も重要だと思う。ピンチはチャンス、チャンスはピンチである。

 ピンチの時も不安であれば、チャンスの時も不安である。というより、不幸なときも不安であれば、幸せなときも不安である。

 幸せなときの不安は、この幸せが「いつか崩れてしまう」ことへの不安で、不幸なときの不安は、この不幸が「いつまで続くのか」という不安である。このように整理できると思う。

 こう考えると、不安から逃れられないことが改めてわかる。そうして、「不安とどう付き合っていくか」という議論が始まるのだろう。

 時に楽観的に、時に悲観的に。

 勉強すること、考えることの効能は「俯瞰」できるようになることだと思う。

 ここまでつらつらと書いてきて、どこに落としどころがあるのかと考えたが、やはりひとまずの解決策は、俯瞰することである。つまり、「主観的な認識」や「感情」を排除して、目の前にあるあらゆる困難を「ただ、そこにある事実」として認識したうえで、自分にとって楽に「捉え直す」のである。

 「意図的な認識の歪曲」これが良いのではないか。「意図的、自覚的」というのは、極めて重要な要素であると思う。

 自分を理解し、操作できれば、少しは楽しく生きれるのではないかなぁ。なんて思う。

 思いやり、想像力に欠ける人間が多い社会だからこそ、俯瞰して生きていたい。わからない、理解できない、だったら関わらない方が良い。

 ネット上の誹謗中傷のニュースを思い、そう考える。他人を自覚しながら傷つけるのは最も愚かである。

 生きるのは社会をよくするためであり、幸せになるためである。

 幸か不幸か、「心」を持ってしまった人間である。耐え難い悲しみや痛みからは逃れることができない。

 なんだかAIが羨ましく思えてくる(辛いとき、痛いときはAIになりたい)。

 幸い、酒が飲める体で良かったと思うが、これも賢い函数の変形ではないのかもしれない。ただ、正直、長生きしたいと思えなくなっている今日この頃である。とりあえず、親より長く生きれたらそれで良いかな。

 さて、ああ幸せだと思える日まで、自分という函数と向き合いましょうか。

 ではでは。