22回目の誕生日を迎えて

22歳になりましたが、改めて、ここまで育ててくれた親、そして大学まで含めた恩師と友人、あらゆる支援者に感謝を申し上げたい。本当に弱く未熟な私は、あらゆる苦難に直面しては、必ず誰かの助けを得て立ち直ってきたことを忘れていません。今、連絡をとってなくても、あなた方のお陰で今があります。

 

少々、ここまでの短い人生を振り返ることにします。
横浜市の病院で生まれてから、神奈川県内で過ごした幼少期は、家庭の事情により、幼稚園→幼稚園→保育園と渡り歩く。それから福岡県北九州市に引っ越し、小学校では純粋に引っ越しのために、小学校を4年生の途中で転校。これが大きな転機だったことは間違いない。転校先の友人や先生が非常に素晴らしかったことは、その後の楽しかった小学校生活を保証した。転校して、初日の登校はそこそこ緊張したが、なんと初日から、友人が遊びに誘ってくれた記憶がある。たしか、家まで遊びにいった。その家は、以下で登場するボクシングかじり少年の家だったと思う。同じ日にだったかは忘れたが、転校してまもなく、後日映画を3人で観に行こうと誘ってくれた友人もいた。今でも感謝している。そのうちの一人は、今、山口の大学で物理学を勉強している。私は経済学だが、進学を目指す同志である(同志であるというのは大変恐縮だが)。今もどりたいとすれば、このわずか2年半の小学校生活だ。やはり、小学校高学年からの人間関係、繋がりは大きいのだと思う。

 

中学校では、トラブルが絶えなかった。友人との2度のトラブルにより不登校になりかけ、野球部ではいじめの内部告発をした。気まずかったが、それからもしばらく憎い2年生のいる部活に参加し続けた。先輩からの仕打ちは、無視のようなものだった。当時、私を含め1年生は皆、2年生の「しごき」を受けていた。私の内部告発によりそれはなくなったが、私は居場所を失った。これは大きな経験だった。後悔はない。また、その他にも中学校ではいろいろとトラブルが多く、弱い自分に何度も失望しながら、なんとか自尊心を保ち、不登校にならず卒業できた。あるボクシングをかじっていた親友の存在や、熱心な母親と担任の支えがあったから乗り越えられた。野球部をやめても居場所があったのは、その親友のサッカークラブに入ったからだったと思う。小さなサッカークラブだったが、そこでの約2年間は非常に楽しかった。コミュニティも中学校の延長にあり、大いに助かった。クラブ関係者に感謝している。

中学校3年間を語るにかかせないのは、「みよし塾」だ。小さな個人塾で、実のお婆ちゃんのような英語の先生と、厳格な祖父のような塾長、そして、歳の離れた兄のような国語と社会の平田先生には、勉強への姿勢、学業において多くを学んだ。お陰で人生初の受験を難なく乗り越えれた。高校3年間は、楽しかったが、中学校と同じくらいしんどい3年間だった。色々とチャレンジし、自分の能力を測れたし、なによりオーストラリアへの1週間ほどのホームステイは、人生の中でも初めて異文化に没入する経験だった。それだけでなく、未だに連絡をくれる素晴らしいホストファミリーに出会えたことは一生の財産だ。必ずや再会したい。勧誘してくださった当時の担任の英語教師にも感謝だ。

それから、2年生になり、大きな苦難を迎えた。これは、本当にしんどかったが、ある人間関係や思春期の心の変化もあり、自律神経失調症になった。またもや不登校になりかけたが、担任の熱心なサポートにより、なんとか、なんとか学校に通い続けることができた。奇跡的だった。周りはこれを知らないが、卒業するまで本当に苦しんでいた。数日間学校を休んだが、心配した担任は、忙しい中、学校帰りにすぐに家まで足を運んで相談に乗ってくださった。そして、あらゆる配慮を約束してくださった。自律神経失調症に関わるような事情は、全て打ち明け、情けなさと恥ずかしい気持ちが尋常ではなかった。その後は、本当に多くの面で配慮され、試験を別室で受けることも増えた。自分は、おそらく周囲から見ても、目立つ位置にいたし、明るいキャラクターだったから、現実とのギャップは大きく、それが症状を悪化させた所はあったと思う。担任だけに病気を伝え、時々面談をした。本当に自分が情けなかった。男らしく、普通に高校生活を最後まで送れなかったが、そんな弱さも自分だと受け入れるしかなかった。セロトニン系の優しい精神安定剤も服用し、なんとか、なんとか「普通の生活」を維持できた。担当医にも感謝している。高校のリズムと生活様式は私の症状と深く関わっていたため、大学に入り、かなり楽になった。長く、辛く情けない一年半だった。この経験は、乗り越えたからこそ非常に意味のあるものになった。これをきっかけに、「見えないところで誰かが苦しんでいる」ことを意識するようになった。当たり前の日常の中で、苦しんでいる人がいて、その人にとっては当たり前じゃないことがあるんだって。病気発症後の自分にとって座学の集団授業やテストは地獄でしかなかった。1分1秒が長く辛かった。長時間、皆の中で、同じ場所で、静かに座ることが、本当に辛かった。周りを囲まれることも苦手になった。だから、世界史では、なんとか高得点をとり、一番後ろの席を確保した。病気になる前から得意だったが、その意味合いが変わった。おそらく、今、同じ自律神経失調症、あるいは過敏性腸症候群に苦しんでいる学生は多いと思う。

このブログを知った学生さん等で、もし、困っていたら私に連絡してほしい。相談に乗ることができます。(デリケートな話なので匿名で結構です。)という感じで、大学は普通の公立大学に入学し、今に至る。思想面で今の恩師に多大な影響を受けた。そうでなければ、読まなかった本や出会わなかった人、見えなかった世界があまりに多いことから、そう言える。学問もまともに修めれず、未熟な自分だが、振り返ってみても、いくらかの困難に打ち勝ってきた。それを微かな誇りに、残りの学生生活を謙虚に送りたい。人生本当に甘くない。なんだか、紆余曲折というか、人生のような、時に脈絡があり、時に脈絡のない文章になった)が、こんな弱い人間が、なんとか周りに支えてもらって、22歳になれました、という「当たり前のようで当たり前じゃない」事実と感謝を伝えてみた。また、弱い自分をさらけ出し、見つめ直すことも意図している。書き忘れたが、3歳の頃に「川崎病」という心臓の難病を経験したこともあった。ガンマグロという薬が効いたことで身体を開かずに助かった。幼い日の記憶に、2週間の入院生活は19年程の時が流れた今もしっかり残っている。本当にあらゆる面で生かされてきた人生で、今後もそうかもしれないが、これまでよりも、というより、生かされてきた以上に、今後は、他人や社会のために貢献したい。いつ死んでも後悔のないように。

ただ、今日は感謝しないといけない。