先輩、松本零士の銀河鉄道999:魂の美しさを追い求めて


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中々ブログの執筆が進んでおりませんが、そろそろアウトプットをしないといけないなぁと思い始めてます。

 

なので、最近感銘を受けた銀河鉄道999について、簡単に書きます。

 

作者である松本零士先生は、高校の先輩にあたります。

 

母校は、学校行事のたびにゴダイゴ銀河鉄道999が演奏されたり、流れたりしておりました。

 

しかし、つい最近まで作品を観たことがありませんでした。

 

我らが小倉駅には、銀河鉄道999のキャラクターのモニュメントがいくつも並び、駅周辺にもアニメの世界観を表したマンホールがいくつもあります。

 

市内を縦に貫く北九州モノレールのラッピング車両も、銀河鉄道999をモチーフとしたものがあるくらいです。

 

さて、アマゾンプライムで劇場版「銀河鉄道999」を視聴した感想ですが、

 

素晴らしい、美しい、純粋。そんなアニメーション映画です。

 

「つめたい」機械人間と血の通った「あたたかい」人間。

 

機械人間は、血が通っていないので、基本的に冷たい。生身の人間は、血が通っているので温かい。

 

もちろん機械人間にも、温かい心を持った人がいて、人間にも冷たい心を持った人がいる。

 

それとともに、「永遠に生きたい」「力が欲しい」「美しくなりたい」「欲しいものを手に入れたい」という、人間の持つ「際限のない欲望」を浮き彫りにした作品だと思います。

 

「死ぬべき時に死ぬことができないことの不幸さ」「いつか終わるからこそ魅力的なもの」「魂の美しさを見よう」これが、作品からのメッセージでしょう。

 

絶世の美女メーテルは、その見た目はさることながら、魂の美しい「機械人間」でした。

一方の、

まだ小さな少年、星野鉄郎は、見た目は決して良くないですが、誰よりも正義感があり、純粋で、優しく、勇敢な魂の美しい「人間」でした。

 

このアニメーションは、近々やってくる、AIの大活躍時代を想像させます。

 

ただ、999に出てくる機械人間には、「魂」があったのです。

 

ここが、私達の生きる現実との相違点です。

 

多くの星を旅する不思議な列車「銀河鉄道999」に乗って、「豊かな人々は」機械の体を、いや、永遠の命を求めて旅をするのです。

主人公、鉄郎は、「愛し、愛され大人に」なっていきます。

 

 

このような素晴らしい作品が、我がまちから生まれたことを思うと誇らしいものです。

そういえば、最近、JR博多駅の新幹線の発車メロディがゴダイゴ銀河鉄道999になりましたね。

 

私も先日、耳にしましたが、「作品を知ってから聴く」とより一層沁みるものです。

 

最後になりますが、メーテルが最後、鉄郎との別れ際に残した以下の台詞は、至高のものです。

 

「いつか私が帰ってきて、あなたの傍にいても、あなたは私に気が付かないでしょうね。」
「私は、あなたの想い出の中にだけいる女。 私は、あなたの少年の日の心の中にいた青春の幻影。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は極めて変数の多い函数であるという認識から話を始めたい。


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 人生で未だかつてない程、うじうじと鬱々とただ慣性に身をゆだねるようにして日常を垂れ流しにしているここ数か月であるが、その一方で多くのことを考えてきたように思う。

 日常を垂れ流すことも、罪なことかもしれないし、日々の思考を垂れ流すのも罪なことかもしれない。いや、罪に違いない。社会に生きるなら、自己満足なことばかりで毎日を生きてはいけないと思う。

 どこかの誰かのいつかの何かになることを祈って、ブログは書いていこうと改めて思った次第だ。

 「関数」これを、「函数」としたことには、少しばかり意味がある。漢字は表意文字であるから、できるだけ意味を直接的に表す漢字を使いたい。関数は、ある「函(はこ)」に数字を入れたら、なんらかの数字が、函から出てくるというものであるらしい。たしかにそうだ。

 人生も函数として捉えることができる。早く寝れば早く起きれるし、恋に落ちれば幸せになったり、雨が降れば気がどんよりするものである。

 この函数は、ひとりひとり切片も傾きもことなるし、変数の種類も数も異なっている。

 切片は、心のタフネス度合いかもしれないし、傾きはある外的要因(変数;例えば、結婚や親の死、転居など)に対する当人の反応度合い(弾力性)かもしれない。

 その意味で、この世に一つとして同じ函数はなく、言い換えれば、同じ人生はないということになる。

 自らの函数の特徴を掴むことは、自信を客観的に分析することであり、ネガティブな変数にたいして、それを効果的に打ち消す操作を導くと思う。

 ただ、あまりに変数が多いと、それはスパゲッティ・ボウルのように複雑に絡み合い、困難な状況から抜け出すことができない。

 時には、色々な関りから距離をとって、どこにある、何が、自分を幸せにするのか、はたまた苦しめるのか考えた方が良いのかもしれない。

 人生は、短期的にみれば二次関数の形をしていて、中・長期的にみれば三次関数の形をしているのではないか。

 上り下りがあるのが人生であり、できればずっと上っていたいのも人生である。

 さて、問題は、下り坂だと認識せざるを得ない時に「どう生きるか」である。

 下り坂の距離は、できる限り縮めたい。一刻もはやく上りたいものである。

 そうすると、理論的に道は三つある。上り坂を、今この目の前に「見出す」あるいは「つくり出す」、そしてもう一つは、振り返って、下ってきた坂を「引き返す」ことであると思う。

 どうしようもない不安と苦悩の中において、もがくこともできない程、魂が疲弊した状況において、それでもなお生きるために、視野を広げてみる、手の届く範囲からがれきを拾い集めて、踏み台にしてみる。そして、これができるのは「根拠のない希望」が持てる人だけなのかもしれない。

 アンジェラ・アキ風には、「消えてしまいそうな時」こそ、楽観的に能天気に明るく前向きにであろうか。

 さらに、下り坂が振り返れば上り坂であるという「逆転の発想」も重要だと思う。ピンチはチャンス、チャンスはピンチである。

 ピンチの時も不安であれば、チャンスの時も不安である。というより、不幸なときも不安であれば、幸せなときも不安である。

 幸せなときの不安は、この幸せが「いつか崩れてしまう」ことへの不安で、不幸なときの不安は、この不幸が「いつまで続くのか」という不安である。このように整理できると思う。

 こう考えると、不安から逃れられないことが改めてわかる。そうして、「不安とどう付き合っていくか」という議論が始まるのだろう。

 時に楽観的に、時に悲観的に。

 勉強すること、考えることの効能は「俯瞰」できるようになることだと思う。

 ここまでつらつらと書いてきて、どこに落としどころがあるのかと考えたが、やはりひとまずの解決策は、俯瞰することである。つまり、「主観的な認識」や「感情」を排除して、目の前にあるあらゆる困難を「ただ、そこにある事実」として認識したうえで、自分にとって楽に「捉え直す」のである。

 「意図的な認識の歪曲」これが良いのではないか。「意図的、自覚的」というのは、極めて重要な要素であると思う。

 自分を理解し、操作できれば、少しは楽しく生きれるのではないかなぁ。なんて思う。

 思いやり、想像力に欠ける人間が多い社会だからこそ、俯瞰して生きていたい。わからない、理解できない、だったら関わらない方が良い。

 ネット上の誹謗中傷のニュースを思い、そう考える。他人を自覚しながら傷つけるのは最も愚かである。

 生きるのは社会をよくするためであり、幸せになるためである。

 幸か不幸か、「心」を持ってしまった人間である。耐え難い悲しみや痛みからは逃れることができない。

 なんだかAIが羨ましく思えてくる(辛いとき、痛いときはAIになりたい)。

 幸い、酒が飲める体で良かったと思うが、これも賢い函数の変形ではないのかもしれない。ただ、正直、長生きしたいと思えなくなっている今日この頃である。とりあえず、親より長く生きれたらそれで良いかな。

 さて、ああ幸せだと思える日まで、自分という函数と向き合いましょうか。

 ではでは。

 

自信のない時は『魔女の宅急便』

 


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恋愛というか友情というか。ハウルの動く城を見た後だから、思うが、キキも、ソフィーと同様、純粋無垢で優しい女性だ。自分に自信がなかったところも似ている。色々な人と関わる中で、自らの魅力に気付かされていき、自信を取り戻す。最終的には、「友」の命を救うことになる。キキは街の誇りになった。
その友とはトンボのことだが、彼は冒頭、キキの「危機」を救った。そして、最後にはキキが彼の命を救った。これがまた良い。「縁」とはこういうものなのか。自信を無くしている人には是非とも見て頂きたい。
無論全ての人を勇気付けるのがキキという女性なのであるが。 

そして、キキは街のシンボルになった。キキの将来が非常に気になる作品。主人公の行く末に想いを馳せさせる作品こそ名作なのでは、と思ったり。 

思うに、ジブリ作品というのは、男女関係の素晴らしさ、美しさ、人間の美しさ、醜さを軸に、自然や平和の尊さを訴えかける作品が多い。良い所も悪い所も美しく魅せる。だからこそ、いつまでも観た人々の心に残るのだろう。

 

人生嫌になったらハウルの動く城を見れば良いと思う

 

 


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なんて美しく儚い物語なのだろう。
小さい頃に初めて見て、それから何度か見ているはずなのに、こんなに心を打たれて、目が潤んだのは初めてだ。
ハウルとソフィーという、2人の純粋無垢な男女の純愛を軸に描かれた物語だが、そのメッセージは、愛だけではなかった。愛と平和。目の前の人を愛する心、慈しむ心は、あらゆる荒んだ心、慌てふためいて冷静さを失った心をも優しく包み込んで美しくする。
この物語に「醜い命」など1つもなかった。魔女だって、国王だって、それらの手下だって、みんな本当は争いごとが嫌い。最大の敵は、荒地の魔女かと思っていたが、そうではなかった。本当に恐ろしいものは、私たち1人1人の心の中にある。人間の敵は人間だった。罪のない人を殺し、罪のない人々の故郷を潰す。これが人のすることかと思うが、それが人間というものだった。魔法使いは、恐れられていたが、誰よりも命を愛し、平和を愛したのも魔法使いだった。人間は、美しくも醜いもの。魔法使いも同じ。
荒地の魔女だって、ただ愛されたかっただけ。寂しかっただけ。ソフィーのあらゆる物を優しく包み込む性格が、あらゆる命あるものの心を動かして、味方にしていく物語。男も女も、人間かそれ以外か、そんなこと関係なく、ソフィーに愛されて皆がありのままの姿に変わっていった。ソフィーの凄いところは、「心を愛せること」だと思う。そんなソフィーに美しい姿と醜い姿を併せ持つハウルは惹かれた。

また、素晴らしいのが、ソフィーは、老婆の姿から若い姿へと何度か変化し、最後には若い、元々の姿に戻ったが、最後まで、誰1人として、その見た目のことを口にしなかった。
そして、ハウルの動く城の住人は、血の繋がりはないが、「心の繋がった家族」になった。
素晴らしい。将来、愛する人とともに必ず見たい物語だ。

もっと他人を愛さないといけない。

この映画の主題曲は『人生のメリーゴーランド』。

人生は、同じような毎日の繰り返し。だけど、歳を重ねるごとに日常は少しずつ違って見えるようになる。産まれ落ちた日に跨ったメリーゴーランドと、今日のメリーゴーランドは、同じようで違うのかもしれない。

そして、命尽きても、また新たなるメリーゴーランドへと人生の舞台が移るのかもしれない。
映画に関わる全てに感謝。感謝。

22回目の誕生日を迎えて

22歳になりましたが、改めて、ここまで育ててくれた親、そして大学まで含めた恩師と友人、あらゆる支援者に感謝を申し上げたい。本当に弱く未熟な私は、あらゆる苦難に直面しては、必ず誰かの助けを得て立ち直ってきたことを忘れていません。今、連絡をとってなくても、あなた方のお陰で今があります。

 

少々、ここまでの短い人生を振り返ることにします。
横浜市の病院で生まれてから、神奈川県内で過ごした幼少期は、家庭の事情により、幼稚園→幼稚園→保育園と渡り歩く。それから福岡県北九州市に引っ越し、小学校では純粋に引っ越しのために、小学校を4年生の途中で転校。これが大きな転機だったことは間違いない。転校先の友人や先生が非常に素晴らしかったことは、その後の楽しかった小学校生活を保証した。転校して、初日の登校はそこそこ緊張したが、なんと初日から、友人が遊びに誘ってくれた記憶がある。たしか、家まで遊びにいった。その家は、以下で登場するボクシングかじり少年の家だったと思う。同じ日にだったかは忘れたが、転校してまもなく、後日映画を3人で観に行こうと誘ってくれた友人もいた。今でも感謝している。そのうちの一人は、今、山口の大学で物理学を勉強している。私は経済学だが、進学を目指す同志である(同志であるというのは大変恐縮だが)。今もどりたいとすれば、このわずか2年半の小学校生活だ。やはり、小学校高学年からの人間関係、繋がりは大きいのだと思う。

 

中学校では、トラブルが絶えなかった。友人との2度のトラブルにより不登校になりかけ、野球部ではいじめの内部告発をした。気まずかったが、それからもしばらく憎い2年生のいる部活に参加し続けた。先輩からの仕打ちは、無視のようなものだった。当時、私を含め1年生は皆、2年生の「しごき」を受けていた。私の内部告発によりそれはなくなったが、私は居場所を失った。これは大きな経験だった。後悔はない。また、その他にも中学校ではいろいろとトラブルが多く、弱い自分に何度も失望しながら、なんとか自尊心を保ち、不登校にならず卒業できた。あるボクシングをかじっていた親友の存在や、熱心な母親と担任の支えがあったから乗り越えられた。野球部をやめても居場所があったのは、その親友のサッカークラブに入ったからだったと思う。小さなサッカークラブだったが、そこでの約2年間は非常に楽しかった。コミュニティも中学校の延長にあり、大いに助かった。クラブ関係者に感謝している。

中学校3年間を語るにかかせないのは、「みよし塾」だ。小さな個人塾で、実のお婆ちゃんのような英語の先生と、厳格な祖父のような塾長、そして、歳の離れた兄のような国語と社会の平田先生には、勉強への姿勢、学業において多くを学んだ。お陰で人生初の受験を難なく乗り越えれた。高校3年間は、楽しかったが、中学校と同じくらいしんどい3年間だった。色々とチャレンジし、自分の能力を測れたし、なによりオーストラリアへの1週間ほどのホームステイは、人生の中でも初めて異文化に没入する経験だった。それだけでなく、未だに連絡をくれる素晴らしいホストファミリーに出会えたことは一生の財産だ。必ずや再会したい。勧誘してくださった当時の担任の英語教師にも感謝だ。

それから、2年生になり、大きな苦難を迎えた。これは、本当にしんどかったが、ある人間関係や思春期の心の変化もあり、自律神経失調症になった。またもや不登校になりかけたが、担任の熱心なサポートにより、なんとか、なんとか学校に通い続けることができた。奇跡的だった。周りはこれを知らないが、卒業するまで本当に苦しんでいた。数日間学校を休んだが、心配した担任は、忙しい中、学校帰りにすぐに家まで足を運んで相談に乗ってくださった。そして、あらゆる配慮を約束してくださった。自律神経失調症に関わるような事情は、全て打ち明け、情けなさと恥ずかしい気持ちが尋常ではなかった。その後は、本当に多くの面で配慮され、試験を別室で受けることも増えた。自分は、おそらく周囲から見ても、目立つ位置にいたし、明るいキャラクターだったから、現実とのギャップは大きく、それが症状を悪化させた所はあったと思う。担任だけに病気を伝え、時々面談をした。本当に自分が情けなかった。男らしく、普通に高校生活を最後まで送れなかったが、そんな弱さも自分だと受け入れるしかなかった。セロトニン系の優しい精神安定剤も服用し、なんとか、なんとか「普通の生活」を維持できた。担当医にも感謝している。高校のリズムと生活様式は私の症状と深く関わっていたため、大学に入り、かなり楽になった。長く、辛く情けない一年半だった。この経験は、乗り越えたからこそ非常に意味のあるものになった。これをきっかけに、「見えないところで誰かが苦しんでいる」ことを意識するようになった。当たり前の日常の中で、苦しんでいる人がいて、その人にとっては当たり前じゃないことがあるんだって。病気発症後の自分にとって座学の集団授業やテストは地獄でしかなかった。1分1秒が長く辛かった。長時間、皆の中で、同じ場所で、静かに座ることが、本当に辛かった。周りを囲まれることも苦手になった。だから、世界史では、なんとか高得点をとり、一番後ろの席を確保した。病気になる前から得意だったが、その意味合いが変わった。おそらく、今、同じ自律神経失調症、あるいは過敏性腸症候群に苦しんでいる学生は多いと思う。

このブログを知った学生さん等で、もし、困っていたら私に連絡してほしい。相談に乗ることができます。(デリケートな話なので匿名で結構です。)という感じで、大学は普通の公立大学に入学し、今に至る。思想面で今の恩師に多大な影響を受けた。そうでなければ、読まなかった本や出会わなかった人、見えなかった世界があまりに多いことから、そう言える。学問もまともに修めれず、未熟な自分だが、振り返ってみても、いくらかの困難に打ち勝ってきた。それを微かな誇りに、残りの学生生活を謙虚に送りたい。人生本当に甘くない。なんだか、紆余曲折というか、人生のような、時に脈絡があり、時に脈絡のない文章になった)が、こんな弱い人間が、なんとか周りに支えてもらって、22歳になれました、という「当たり前のようで当たり前じゃない」事実と感謝を伝えてみた。また、弱い自分をさらけ出し、見つめ直すことも意図している。書き忘れたが、3歳の頃に「川崎病」という心臓の難病を経験したこともあった。ガンマグロという薬が効いたことで身体を開かずに助かった。幼い日の記憶に、2週間の入院生活は19年程の時が流れた今もしっかり残っている。本当にあらゆる面で生かされてきた人生で、今後もそうかもしれないが、これまでよりも、というより、生かされてきた以上に、今後は、他人や社会のために貢献したい。いつ死んでも後悔のないように。

ただ、今日は感謝しないといけない。

Trump’s “America first” energy policy, contingency and the reconfiguration of the global energy order, FaridGuliyev, 2020を読んで


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画像の出所:

https://toyokeizai.net/articles/amp/344411?display=b&_event=read-body
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1.2つの偶然

トランプ陣営の新重商主義と、自国優先主義が世界のエネルギー体制に大きな変革もたらしている。背景にあるのは予想できない偶然性。その1つがトランプが当選したことである。この論文を読んで、はじめて、トランプの当選が、いかなる専門的知見や法則性からも「予想外」なものだったのかがわかった。もうひとつは、2014年の「シェール革新」を起こした技術革新である。米国が2007年に、LNGの輸入ターミナルを建設していたことから、それがいかに偶然かがわかる。

シェール革新とトランプの当選という2つの偶然が重なり、これまで化石燃料市場を牛耳っていた、中東諸国やロシアが突如、大いなる先行き不安に陥れられるプロセスはダイナミックかつ、国際政治経済に潜む、大きな不確実性を示す事例。

シェール革新×トランプという爆弾を前に、中東諸国やロシアは、早急な、経済構造の変革を迫られることになった。天然資源の輸出に依存して来たのだから仕方がないが、まさかこんな早く「変革の時」が来るとは思わなかっただろう。ロシアにしても、中東諸国にしても、甘い密をこの時のために投資してきたのか、それは十分かが試されていると思う。

2.欧州における覇権をめぐる米露

さらなる面白い点は、ヨーロッパ諸国が、ロシアに化石燃料供給の主導権をより強くさせているが、トランプ陣営は、必死に、東欧に整備されようとしているパイプライン建設を妨害している構図。ヨーロッパ諸国としては、どうやらどちらかというと米国には依存したくないように読み取れた。ここにNATO、WATOの面影はないのだろうか。

3.「時代を巻き戻す」トランプ陣営

エネルギー供給をめぐっては、特に化石燃料の偏在に伴う政治的なリスクがかつてから認識されてきたし、持続可能性や、環境への不適合性からも、その価値は見直されている最中である。そこに「新たな生産者」の参入が起きたが、これは果たして世界経済と地球に良いことなのか。

ダイベストメントの潮流を踏まえても(加えてパリ協定も)、米国の参入は「時代遅れ」と私の目に映る。ただ、トランプは、論文にあるように、これまでの国際的な環境改善の努力をぶち壊し、「時代を巻き戻そう」としているようである。ここに、国際的なガバナンスとトランプ的ガバナンスの論理の対立が生まれているように思う。

4.安全保障を考える:地球規模で捉え直す公共財としての化石燃料と食料

エネルギーをめぐるリスクは、たしかに化石燃料であれば、そもそも、いつか枯渇するという必然的なリスク(これはリスクなのか?)を抱えているが、それに加えて、以上で述べたように、「トランプ陣営」がそこに存在し、舵を握ることによって発生する、「トランプ的政治リスク」がそこに加わってしまう。

私が、ここで最後に述べておきたいことは、本来的には、エネルギーは、生産(厳密には搾取)から供給を通して、公正に扱われるべきものだと思う。それは、「そこに宝が眠っていたから」独占的な地位を得続けることは、不公平だと考えるからである。その意味で、「エネルギー安全保障」というのは、本来、あってはならない概念だと指摘したい。

エネルギーは、いまや、世界の「公共財」である。結果論ではあるが、人類は固定化された炭素を「呼び覚ます」べきではなかったかもしれない。ただ、イギリス産業革命は、人類を大きく繁栄に導く、口火を切った。

それから、世界は「炭素経済化」していき、いまも変わらない。

そこでは、多くの国が炭素経済であるから、食糧と並び、「命綱」である化石燃料を用いて、世界を振り回すことは好ましくない。

ここまで、グローバリゼーションが進んだ今や、食糧安全保障やエネルギー安全保障が問題になること自体が不健全である。

そうはいっても、国家を前提とした国際政治の論理はそんな美しいものではないから、今後、より一層、「食とエネルギーの自給自足」を前提とした経済・人口規模の中で各国は繁栄を目指していくべきだろう。

「裏切られても大丈夫」な自立した経済が求められていると思う。

5.米国よ席を譲れ、そして戻ってこい:まとめにかえて

米国は、もう十分甘い密を吸ったのだから、化石燃料を、外交のカードにするのではなく、途上国に安く売ってあげるべきではないか。そして、国家として、再エネへ大きな投資をすべきだろう。

米国よ、パリ協定へ戻ってこい。

 

 

 

Trump’s “America first” energy policy, contingency and the reconfiguration of the global energy order - ScienceDirect

これが本稿で感想を書いた、論文のリンク先です。無料でダウンロードできるので、ぜひ、読んで頂ければと思います。

 

最終稿:2020.4.29

大島堅一(2011)『原発のコスト』岩波新書を読んで:大切なことは何か

 

 


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はじめに

内容の振り返り

・当事者として国の政策を疑う

・本書の全体像

・被害の捉え方と本質

・被害の補償における費用負担の問題点:私たち1人1人の問題として考える

・「原発のコスト」をどう考えるべきか

・元凶としての「原子力村」

・「脱原発」と「再生可能エネルギー

・受益者ではなく被害者として「原発立地地域」を捉える:公平な社会へ向けて

おわりに

 

はじめに

震災後9年が経過したが、メディア等の報道を見る限りでは、被災地は被災地のままであることを疑いようがない姿であるように思う。環境と経済学を曲がりなりにも、関心を持って勉強するうちに、いかに東日本大震災が世界の政治経済に大きな影響を与えたのかが理解できるようになったし、震災がもたらした被害の甚大さ、恐ろしさ、事故に繋がった様々な問題点とそこに未だに存在する重要な論点を知ることになった。

 そのような中で、一度も被災地には足を運んでいないため、いずれはこの目で「復興」そのものを見つめたいと思っている。

 『原発のコスト』は、言わずと知れた「原発の書」である。著者である大島堅一氏は、地元が福井県であり、そこはいわば「原発城下町」である。そんな背景もあり、大島氏は、震災前から、日本の原発推進体制に警鐘を鳴らしてきた。本書の前には、2010年に東洋経済新報社再生可能エネルギーの政治経済学』が出版されており、こちらは、再エネ、原発の両方について非常に詳細に書かれている。そして震災後の2012年には、同出版社から『原発はやっぱり割に合わない』が出版されるなど、大島氏の著作は原発に関心を寄せる人々の、必読書たり続けている。精力的にシンポジウム等も行っており、メディア等への出演も多い。

内容の振り返り

当事者として国の政策を疑う

 では、内容を振り返ろう。「原発のコスト」が最大のテーマであるが、単刀直入に言えば「原発は高い」のである。それが本書のメッセージである。

 国のエネルギー政策に多少なりとも関心のある方であれば、「原発は大規模に発電出来て、効率が良く、従って安い」という国の喧伝通りの見識を持っておられるのではないか。

 そこで思考停止せずに、「本当に安いのか?」という風に、その根拠は何かを突き詰めて考えようというのが本書の狙いであろう。

 国の示す「脚色された情報」がいつも正しいとは思わないことが重要であるという事実は、安倍政権の度重なる不祥事だけを見ても、明らかであろう。

 こと、エネルギー政策については、とりわけ重要であるから、国民はこれに関心を持っていなければならない。国民のほとんどは「大手電力会社」から電力を買っているのであるから、その電気が「どのように」「どれだけのコストを使って」生み出されているのか、を考えることは当然のことなのである。

 そして、福島の原子力発電所の事故を見ても明らかなように、たとえ電気を買っておらず、自給自足生活を営んでいるような人々をも脅かすのが「私たちの電力源としての原発」なのである。

本書の全体像

 本書は、東日本大震災に伴って起きた、「原発事故そのもの」とその「被害の全容」、そして「原発を使って発電をすることでかかるコスト」を丹念に記述している。最後には、「脱原発の実現可能性」を示している。非常に説得的な内容と構成を持つ。

 とりわけ重要なのは、原発事故がどのような不備を背景として起こったのかという、「原発事故の必然性」の把握と、原発事故の被害はどこの誰にどれだけ及んだと捉え、どこまで、どのように補償していくべきなのかということ、原発というあまりにも危険な大規模技術的を動かすにあたって、様々な「見えるコスト」「見えないコスト」があり、それらを踏まえた「原発のコスト」をどう考えるかという点である。

被害の捉え方と本質

 被害の全容については、「復興」を進めるにあたっての重要な前提である。それは、被害が決まらなければ補償の内容も救済の内容も決まらないからである。「補償」の意味については、原発事故補償を研究している除本理史が、2014年の北海道大学の紀要論文、「戦後日本の公害問題と原発事故」『経済学研究』の中で、「「賠償」を含むより広い概念として「補償」の語を用いている。「補償」は、法的な賠償責任を前提としない場合(たとえば 「社会的責任」など)を含み、また、金銭賠償を越えた広義の「償い」をも含意する」と述べており、重要に思う。本稿では、これに習い賠償も含む、幅広い意味での補償として補償を用いている。

 物理的・精神的被害は本書にあるように、日本全土に及んでいる。放射線は、九州地方にまで飛んできているし、周辺の放射能汚染についても、図1-1を見れば一目瞭然であるが、事故時の風向きと、風の強さによって必ずしも、近い程汚染度合いが高いわけではないことがわかる。つまり、放射能汚染の被害には地理的にもムラがあるのだ。

 また、原発従事者の被ばくは事故処理において深刻なレベルであることにも触れられている。言うまでもなく、被ばくによる人体への影響は大きな不確実性を孕んでおり、被害者への長期的な補償と、健康を保障するためのあらゆる支援を責任主体が行っていかなければならない。

 事故の被害を捉える上で重要な点だが、被害には2種類ある。①金銭的な評価が可能な被害②金銭的な評価が不可能な被害である。大島氏が述べているように、被害において本質的なものは、②の金銭的な評価が不可能な被害である。それは、そのような被害は、いくらお金をかけても不十分で、完全に元通りにすることができない不可逆的な被害だからである。不可逆的な損失には、高度の汚染によって「ふるさと」を失うという被害(「ふるさとの喪失」と言われる)や、被ばくによる「健康の喪失」、一時的な(とはいえ何年にも及ぶ)避難によって、元々のコミュニティへの復帰が困難になる「コミュニティの喪失」等が含まれる。当たり前だが、被ばくし、殺処分された家畜は二度と戻ってこない。多くの精神的苦痛は②であるという認識が重要だろう。だからこそ、「原発推進の是非」は慎重に議論しなければならない。

被害の補償における費用負担の問題点:私たち1人1人の問題として考える

 被害を捉え、確定し、いよいよ賠償が行われるが、本書で明らかにされるのは、国と東電の「責任主体」としての自覚の甘さが露呈した、被害の認識と賠償のやり方である。原発事故被害額は、少なくとも10兆円規模で、20兆円を超えても不思議ではない。本書の時点では、「原状回復費用」は不明とされている(詳しくは表2-1を参照)。

 そして、それらにかかる費用は、一義的には直接の原因者である「東電」によって支払われることになっているが、一部は、全国の原発保有する電力会社からも支払われることになっており、それらは「電気料金」として我々に「価格転嫁」(つまり責任転嫁)されているのである。その意味で、我々は知らず知らずのうちに「東電の尻拭い」をさせられているのである。

 翻って言うと、原子力発電所の事故被害は甚大なため、たかだか大手民間会社には、いざという時に「責任をとれない」ものである。だからこそ、原子力発電所を動かすことの責任の重さとリスクを認識したうえで、我々はエネルギー政策を検討しなければならないのである。

原発のコスト」をどう考えるべきか

 以上のようなリスクも含めたコストは、当然考慮して「原発のコスト」を考えるべきであるが、原発の発電に要するコストは本当に安いのか。これについては、見えないコスト(発電単価を計算する式に含められていなかったコスト)が重要である。

 それは例えば、莫大な宣伝費用を含めた原発推進にかかるコストや、立地地域へ支払う電源三法交付金などのいわゆる「政策コスト」である。これらも、国家財政からの支出であり、これがなくては原発は立地できないばかりか、発電ができないのだから、これらのコストを「原発の発電コスト」と考えることは当然、正当化されるべきだろう。詳しくは本書の図3-2等を参照されたいが、原発立地地域には数十億円が毎年支払われる。だからこそ、小さな産業のない地域は、原発に手を出してしまう。ただし、当然、住民の意志により民主的に決まるばかりではないだろう。原発のリスクについては、地域住民と行政担当者・事業者とでは持つ情報に大きな差があり、当然後者が圧倒的に多くの情報を知っている(経済学的には「情報の非対称性」)からであるし、利権とカネが絡むからである(原発の政治経済学的な側面)。あわせて、原発にかかる具体的な金額については表3-2も参照されたい。

元凶としての「原子力村」

 こうして生まれるのが、国・自治体・電力会社・原発立地地域住民の複合体、つまり「原子力村」である。ここでは詳しく述べないが、「原子力村」は組織として非常に不健全な側面を持ち、これらが原発安全神話を信仰・布教することで、いくどとなく原発関連の事故が起こってきたことは見逃してはならない重要な論点である(詳しくは、高木仁三郎(2000)『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書等を参照されたい)。

脱原発」と「再生可能エネルギー

 最後には、「脱原発」の必要性と実現可能性、そして脱原発は何を我々にもたらすかが述べられる。具体的には、「脱原発」の内容は、原発を止めて、21世紀にふさわしい「安全で安心でクリーン」な再生可能エネルギーに代替しようということである。本書の書かれた2011年時点では、再生可能エネルギーの発電コストは世界的にも国内的にも他電源に比較して現在よりはるかに高かったが、2020年現在では、とくに世界的にみると、最も安価な電源になりつつある。太陽光発電風力発電は、その筆頭である。

 再生可能エネルギーについても多くの利点があり、それは欠点を補って余りあるものだと私は考えるが、皆さんはそう考えるだろうか。もし、判断材料が足りないと思うのであれば、ぜひ本書を手にとっていただきたい。

受益者ではなく被害者として「原発立地地域」を捉える:公平な社会へ向けて

 いつの時代も、私たちは、「エネルギー」を用いて生きている、あるいは生かされているのである。そのエネルギーの使用価値は同じであっても、その使用に伴って「どこかで被害が生じていないか」「どこかで、いつか被害が生じるのではないか」このような視点を本書は提供していると思われる。

 憤りを隠せない浅はかな考え方として、タイムリーな問題だが「汚染土等の放射性廃棄物の管理」つまり、放射性廃棄物をどこにおくかという問題をめぐって、例えば、東京の人間が「原発立地地域は多額の補助金(先の電源三法交付金等だろう)を受け取っているのだから、文句を言うな」というものがある。これは、原発推進の政治経済的側面を無視しているだけでなく、原発事故被害を理解していないからこその意見だと思う。原発立地地域のリスク負担といざというときの事故被害を前提として、自らの消費する電力が送られてきていることを考えなければならない。原発立地地域は「受益者」ではなく、「被害者」であるとの認識が重要ではないか。

 あなたのまちに原発が立地するとして、多額のお金でそれを受け入れるだろうか。

つまり、生産地と消費地が分離された原発問題は、そのような「公平性」も含めて、「自分のこととして」考える必要があるのではないか。

おわりに

 長くなったが、最後に宇沢弘文の歴史的名著『自動車の社会的費用』から、次の一文を引用しておきたい。自動車は、原発。自動車通行は、原発の利用と置き換えてみることができると思う。

 「自動車の社会的費用を考えるときに、たんに自動車通行という点だけを取り出して考えることはできない。社会的費用の概念の背後には、必ず、わたくしたちがどのような生活を欲していると考えるのか、またどのような資源配分、所得分配の制度が望ましいと考えているのか、という点にかんする一つの社会的価値判断が前提とされている」(173頁より引用)」。

 

最終稿2020.4.30